1980年代半ばから数多くの外国人ドライバーが日本のレースに参戦するようになっている。そのなかで最大の大物といえばF1で7度チャンピオンに輝いたミハエル・シューマッハだろう。もっとも彼はフォーミュラ・レースに限ると1991年全日本F3000選手権第6戦にスポット参戦しただけだった。 しかし、シーズン・フル参戦を果たしたドライバーに限定すれば、ロス・チーバーが最強だったのではないだろうか。ほかにも全日本F3を経てF1に参戦し1997年のチャンピオンになったジャック・ビルヌーブや、やはりF1でタイトル争いを演じたハインツ・ハロルド・フィレンツェン、エディ・アーバインなどの大物がいる。しかし、関係者に衝撃を与えたという意味で、チーバーの存在は際だっていた。 彼が日本のレース界にデビューしたのは1987年の全日本F3で、ラルト・トヨタ/ダンロップで挑んだ第1戦は4位に終わっていた。関係者に衝撃を与えたのは筑波で開催された第2戦で、予選でコースレコードのポール・ポジションを獲得すると、決勝は際だったスピードで一度も首位を譲ることなく圧勝している。このときチーバーは若干24歳、当時、ニスモの常務取締役だった菅原孝見はレース後にこう語った。 「彼の走りは衝撃的だった。兄(F1ドライバーのエディ・チーバー)より間違いなく速いだろう」 そしてロス・チーバーは陽気にレースを振り返った。 「最初のコーナーで誰よりも前だったのがよかった。序盤でリードを広げて、あとは引き離すだけの楽な展開だった。タイヤもクルマもエンジンもすべてよかった」 続く第3戦の富士からチーバーはシャシーをそれまでのラルトからレイナードに変えて、トヨタ/ダンロップで挑んで2位に滑り込んでいた。そのセッティングが煮詰まった第4戦の鈴鹿は予選で2位を0・8秒も引き離す圧倒的な速さを発揮、決勝でも後続に20秒も差を付ける圧勝でポイント・リーダーに躍り出ている。そして第5戦の菅生をも制し、タイトル獲得はこの時点で早々と確定したかと思われた。 しかし、決勝朝のフリー走行で他車と接触して大破し、満足にセッティングされていないスペア・カーでの出走を余儀なくされるなどの不運も重なって、その後のポイントが伸び悩むことになる。その間にチーバーを追い詰めたのは後に全日本F3000のチャンピオンになった唯一のライバル、小河等だった。その小河は第7戦の西日本で全日本F3に初優勝し、第9戦をも制して最終戦を前に総ポイントでわずか2ポイント差ながらチーバーを逆転している。 そして迎えた最終戦、タイトルの有資格者はチーバーと小河で、3位以下は大きく引き離されていた。同年のチャンピオンシップ・ポイントは全10戦中、成績のいい7戦に与えられることになっていた。そのため小河が3位でチーバーが4位なら両者の有効ポイントが同じになり、優勝回数の多いチーバーがチャンピオンとなる。しかし、それ以外は先着したほうがチャンピオンになるはずだった。 注目の予選、ポール・ポジションを獲得したのはチーバーで小河は僅差の2位となり、タイトルを争う二人がフロント・ローを分け合っている。だが、決勝はあっけない幕切れとなった。スタート直後の1コーナーで小河が後続車と接触してスピンし、大きく順位を落としたのだ。これに対してスタート直後の混乱を回避したチーバーは悠々の一人旅で1987年の全日本F3チャンピオンに輝いている。 チーバーがチャンピオンになった理由はいうまでもなく速かったからだ。だが、他チームの関係者は加えてもうひとつの要因をシーズン終了後にこう語っている。 「今年はダンロップのタイヤも抜けていましたね。タイヤのパフォーマンスが優っていたのは一目瞭然でした。だからチーバーも能力を生かし切ったのですよ」 その後、チーバーは活動の舞台を全日本F3000に移し、毎年チャンピオン争いを展開したが、頂点にはついに届かなかった。しかし、彼が最速の助っ人だったことは多くのレース関係者が認めており、同時代を走った複数のドライバーは、 「他の外国人ドライバーと比べても速さは際だっていた。F1に行っても間違いなくチャンピオン争いに加わる逸材だった」 と語っている。しかし、彼がF1に乗ることはついになかった。そのいきさつについては本コーナーの「小河等、たった1度のトップ・フォーミュラ優勝」をご参照していただきたい。 (黒井尚志) |
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