1989年
小河等、たった1度のトップ・フォーミュラ優勝
 全日本のトップ・フォーミュラ・シリーズは1973年に始まり、1987年からF3000になって現在のフォーミュラ・ニッポンへと引き継がれている。そのシリーズでもっとも意外な結末でチャンピオンが決定したのは1989年だった。チャンピオンは小河等、彼は第7戦の鈴鹿グレート20で初勝利を収めたが、全日本のトップ・フォーミュラで勝ったのは後にも先にもこのレースしかない。
 1989年の全日本F3000はダンロップ・ユーザー同士の争いで、タイトルを争った小河とロス・チーバーには際立った違いがあった。小河は当時の日本を代表する理論派で物静かな紳士で、チーバーは陽気なアメリカンだが禁酒禁煙の徹底した菜食主義者だった。両者に共通していたのはいずれも記者の評判がいいことと、そして際立って速かったことだ。
 先に結果を出したのはチーバーだった。彼はとうてい日本のサーキットには合わないといわれていたレイナードで第2、3戦を連覇している。対する小河は2位、2位、4位、4位と着実に入賞していた。メンテナンスを担当していたセルモの佐藤正幸代表が小河に、
「もう一つ上が空いているじゃないか。目指してみないか」
 と伝えたのは第4戦終了後のことだ。そもそもレース用タイヤの内圧や表面温度は競技中に刻々と変化する。その変化を瞬時に体感し、走りに反映させることができれば結果はついてくる。セルモにはその豊富なノウハウが蓄積されていた。そして小河の能力ならチームのノウハウを短期間のテストで消化できると佐藤は確信していた。その成果は第6戦で現れ、小河は初のポールポジションを獲得している。決勝は2位だったが、この時点で小河は10位に終わったチーバーと並んでポイントリーダーに躍り出ている。
 そして第7戦の予選で小河は2位以下を1秒以上も引き離す圧倒的な速さでまたもポールポジションを獲得した。決勝でも小河は弾丸スタートを決め、わずか10周で2位を10秒も引き離す驚愕の走りを見せつけた。一方のチーバーはタイムアタックに失敗し、予選は6位に留まっていた。それでも決勝では序盤から前車を次々にクリアし、すぐに3位につけている。ここでチーバーの前に立ち塞がったのは名手・星野一義だった。その星野を抜いたのは35周レースの20周目、しかし、そのときすでに小河はチーバーに20秒近い差を広げていた。こうして小河はラスト5周を流し、2位チーバーに13秒の大差をつけて全日本F3000初勝利を飾っている。
 そして迎えた最終戦、小河はまたも2位を1秒以上も引き離し、3戦連続でポールポジションを獲得している。決勝でも小河は圧倒的な速さで独走、チャンピオンは決定したかと思われた。だが、サスペンション・トラブルでリタイヤに終わっている。このとき、3位を走っていたチーバーに逆転チャンピオンの可能性が一気に高まった。だが、最終ラップで信じられないことが起こった。直後を走っていた中子修のブレーキ・トラブルに巻き込まれ、ヘアピンでコースアウトしたのだ。この瞬間に小河のチャンピオンが決定している。
 レース後、ともにダンロップ・タイヤでタイトルを争った小河とチーバーのもとに複数のF1チームから話が舞い込んだ。条件は悪くなかった。スポンサー持ち込みではあったが法外な金額ではなく、いずれも低いほうの数千万円だった。だが、小河は関係各者と相談の上、「相手にするほどのチームではない」との理由で断っている。そしてチーバーは交渉そのものに応じていない。このときダンロップ・モータースポーツ部長の京極正明は、
「1年目はスポンサー持ち込みでも、おまえの実力なら2年目には必ず一流チームから声がかかる。だから交渉の席に着くべきだ」
 と説得したが、チーバーはついに応じなかった。1年後に彼はそのときの心境を淡々と振り返っている。
「もし私がネクタイを締め、アタッシュケースに書類を詰めて日本の企業を回れば、スポンサーについてくれる会社は必ず現れるだろう。だけど私はプロだ。プロとはスーツケースにヘルメットだけ入れてサーキットに行き、チームが期待する結果を残して報酬を得るものだ。その報酬を渡さず、逆に資金を持ち込むなら乗せてやるというチームと交渉するつもりはない」
 それから2年後、小河は世界スポーツカー選手権(SWC)で世界を転戦している。その小河を見かけた海外のレース関係者はこう囁き合っていた。
「小河は日本人でいちばん速いんだろ。どうしてF1に乗らないのかな」


(黒井尚志)




鈴鹿のS字コーナーを独走する小河



優勝した小河(中央)を祝福するチーバー(右)
と左は3位の星野