1994年
敗者ではなく勇者として――1994年ル・マンを支配したサード・トヨタ
 日本チームの日本車によるル・マン24時間総合優勝は1991年のマツダ787Bしかない。しかし、ラップ・リーダーとなると話は別で1994年のサード・トヨタは序盤に首位に立つとレースの大半を支配していた。だが、レースも残りわずかとなったところでトラブルが発生し、総合優勝は叶わぬ夢となった。それでも人々は最後まで戦い抜いた彼等を敗者ではなく勇者として迎えた。

 そのチームを率いた加藤眞はトヨタ第7技術部でトヨタ7の開発とチーム活動に携わっていた。しかし、トヨタがレース活動から撤退したことから2年後の1972年11月に退社して自らコンストラクターのシグマ・オートモーティブを設立、翌73年に日本人として初めてル・マン24時間参戦を果たしている。そして75年までル・マンに参戦し続けたが76年にレース界から忽然と姿を消すことになった。

 それから10年を経た1986年、加藤はサード・レーシングを率いてグループA(連続する12ヶ月間で5,000台以上生産された4座席以上のツーリングカー)でレース界に復帰している。その後、グループC(耐久レース専用のスポーツプロトタイプ)に移行し、1989年からトヨタの支援を受けトヨタ・チーム・サードとして活動を始めることになった。そのときかつてル・マンで知り合ったアラン・ドッキングの紹介で起用したのがローランド・ラッツェンバーガーだった。以来、彼は1993年までサードの主力ドライバーを務めることになる。

 加藤がル・マンに復帰したのは1990年だがこのときはエンジン・トラブルでリタイヤしている。翌91年は欠場、そして92年はギヤボックスの交換で遅れ、9位にとどまった。

 加藤が「快心のレース」と振り返ったのは93年だった。この年は3.5リッターNAエンジン搭載車がレギュレーション上圧倒的に有利で、しかもトヨタとプジョーの2大ワークスが参戦していたため総合優勝など望むべくもなかった。それでもサードはヘッドライトが消えて一時的に5秒ほどタイムを落としたのとドアのフランジを交換した以外にミスを犯すことなく24時間を管理し、プジョーとトヨタの2大ワークスに次ぐ総合5位入賞を果たした。そのレースが終わったとき、加藤はこう言った。

「2大ワークスが去り、プライベーター同士で戦える来年こそチャンスだ」

 1994年、サード・レーシングはトヨタ92C-Vをベースに、ル・マンの新カテゴリーであるLMP1クラスに仕様変更されたトヨタ94C-Vで参戦した。ドライバーはエディ・アーバイン/マウロ・マルティニ/ジェフ・クロスノフ。当初このクルマにはローランドが乗るはずだった。しかし、彼は同年のF-1サンマリノGPで非業の死を遂げており、代わりにアーバインが起用されていた。当時、日本の耐久レース・チームに十分な力があることはヨーロッパでも知られており、前年の実績もあってサード・トヨタは現地で有力な優勝候補と目されていた。

 しかし、この年のル・マンはレギュレーション上の大きな落とし穴が潜んでいた。ロードカー仕様が1台でもあれば認められるLM GT1というクラスが設けられたのだ。そしてダウアー・レーシングがポルシェ962の1台をドイツでロードカー登録してナンバープレートを取得し、このクラスに3台を揃えてきた。しかもダウアー・レーシングとはあくまでもエントラント名にすぎず、ポルシェ本社の技術者も加えたヨースト・レーシングとの混成部隊で、実態はポルシェ・ワークスの別働隊だった。

 この両クラスを比較すると明らかにLM GT1のほうが有利だった。車両重量はLMP1の950kgに対しLM GT1は1,000kgだが、装着が義務づけられたエアリストリクターの径が異なっており、最高出力はLMP1の500~550馬力に対しLM GT1は600~650馬力を発揮できたからだ。さらに決定的だったのは燃料タンク容量で、LMP1の80リットルに対しLM GT1は120リットルだった。タイヤ・サイズはLMP1の16インチに対しLM GT1は14インチだが、そもそもル・マンはタイヤがそれほど摩耗するコースではない。そのため2インチ トレッドが狭いタイヤでも頻繁な交換が必要ではないし、通常のピット・ストップで燃料補給中に交換できるためハンデとはなり得なかった。そしていずれのカテゴリーもダウンフォースは大幅に削減されていた。

そのためサード・レーシングとダンロップは制動性とコーナリング性能に優れた94年ル・マン仕様のタイヤを開発して乗り込んでいる。このタイヤはズバリと当たっており、予選はそれほど本格的なタイムアタックをしたわけでもないのに首位から2秒遅れの4位と気を吐いた。

 そして迎えた決勝、ここでもタイヤは見事に的中していた。レギュレーションで有利な2台のダウアー・ポルシェと互角以上の勝負ができたからだ。レースはこの2台のダウアー・ポルシェにサード・トヨタと、日本から参戦したもう1台のトヨタであるトラスト・トヨタが激しく首位争いをする展開で始まっている。この状況はしばらく続くが、夜になると2台のトヨタがダウアー・ポルシェを次第に引き離す展開となっていった。

 上位4台のうち、最初に脱落したのはトラスト・ポルシェだった。トヨタの弱点といわれたトランスミッションが2日目の明け方にトラブルを起こし、交換に1時間も費やしたのだ。結局、この差は最後まで縮まらず、トラスト・トヨタは総合4位でレースを終えている。

 一方、もう1台のサード・トヨタにトラブルの兆候はなく、2台のダウアー・ポルシェを次第に引き離すようになっている。その差は時間を追うごとに開き、2日目の午後にはほぼ4周差をつけていた。レースはそのまま何事もなく終わり、サード・トヨタが総合優勝を果たすと誰もが思ったそのとき、最後のドラマが待っていた。

 それは残り1時間15分になったときだった。ピットから飛び出したクロスノフはピット・ロードの出口で突然クルマを止めてしまった。そしてクルマから降りると後部を操作し、再び乗り込んでスタートした。シフトリンケージのトラブルが発生したのだ。じつはサード・トヨタはミッション系のトラブルが発生したさい、手動でギアを3速に入れることができるよう仕上げてあり、それをドライバーに伝えてあった。クロスノフはそれを着実に実行したのだ。

 3速で再スタート出来たことにも訳がある。エアリストリクターの装着義務づけで最高出力が伸びないため、エンジンは低中回転域で十分なトルクが発揮できるようチューニングしてあったからだ。加えてLMP1はベースがグループCカーで、爆発的なトルクをトラブルなく伝達するため、トリプル・プレートのクラッチを採用していた。そのためクラッチを破壊することなくゆっくりと再スタートし、ギアを3速に固定したままピットに戻っている。

 しかし、シフトリンケージの修復作業は14分におよび、ピットに辿り着くまでの時間も含めるとサード・トヨタは約30分を失っていた。この間に2台のダウアー・ポルシェに抜かれ、首位から周回遅れの3位に転落していた。それでもレースはそのまま終わったわけではない。のちに加藤はこう述懐している。

「今さらおめおめと3位で帰れるか。こうなったら2位かリタイヤかどっちかだと思った」

 このとき最後の45分を走ったアーバインは最速ラップをたたき出しながら激走している。そして最終ラップでティエリー・ブーツェンの操るダウアー・ポルシェの1台を抜き、2位でレースを終えることになった。それはすでに観衆がコースになだれこんでいるときだった。

 もしあのとき、シフトリンケージにトラブルがなければ……。しかし、加藤はそれを明確に否定し、こう語った。

「じつは最初のブレーキ・パッド交換で、メカニックのひとりがブレーキ・キャリパーのピストンが飛び出したまま交換するミスを犯していたんです」

 そのためブレーキは効かず、クルマはたった1周でピットに戻っている。そしてカウルを開けるとブレーキのリザーバータンクは真っ黒に汚れており、ブレーキ・オイルの交換とエア抜きに4分を要している。加藤の話は続く。

「首位のダウアー・ポルシェとの差は最終的に4分でした。だからあのミスがなければ、シフトリンケージのトラブルがあっても勝っていたはずです。競技とはそういうもので、野球だってバントのミスで負けることがありますよね。その意味で私は2位だった94年より、5位だったけどノー・ミスで24時間を戦った93年のほうがいいレースだったと思います」

 そして、サード・レーシングにとって94年ル・マンはそれで終わったわけではない。それから1カ月後にフランスから船便で送ったクルマはガレージに戻り、すぐに分解されている。そのときスタッフはほとんど丸坊主になった3速ギアを見つけることになった。シフトリンケージが折れたとき、クロスノフはギアを3速に固定したままピットに戻らなければならず、そのためにすっかり摩耗してしまったからだ。そしてあとを継いだアーバインは摩耗した3速を使わず最速ラップを刻んでいたのだ。加藤は言った。

「あれはローランドの魂が乗り移った走りだったのではないのか」

 だが、加藤がほんとうに驚いたのはそのことではない。じつはリアのショックアブソーバーを固定するブラケットに亀裂が入っており、あと3mmで破断するところだったのだ。もしそれがレース中に破断していれば、大事故につながる可能性もなかったわけではない。加藤はその事実を知ったとき、94年ル・マンはツキに見放されたのではなく、もっとも幸運に恵まれたレースだったことを思い知らされたという。


(黒井尚志)

サード・トヨタはレギュレーション上、ライバルのダウアー・ポルシェより不利だったものの、タイヤとの相性が抜群で、エアリストリクターの装着義務により直線は遅かったものの圧倒的なコーナリング性能で最後まで最速を誇っていた。


これが最後のピット・ストップこのとき作業は14分を要した。このときすでに3速のギアは摩耗で丸くなり使えなくなっていたが、ピットを出たアーバインはベスト・ラップを更新する激走でダウアー・ポルシェの1台を抜き2位でフィニッシュした。