1985年から1993年まで富士スピードウェイでインターTECというツーリングカーの国際レースが開催されていた。当時の富士スピードウェイは10月上旬にスポーツプロトタイプによるWEC(世界耐久選手権・89年以降はインターチャレンジ富士1000kmに名称変更)が開催されており、インターTECはそれに続く11月のビッグイベントとして絶大な人気を誇っていた。 参加車両は連続する12ヶ月で5000台以上生産されたグループAというカテゴリーに分類されるツーリングカーで、排気量1001~1600ccのディビジョン3、1601~2500ccのディビジョン2、2501cc以上のディビジョン1という3クラスに分けられていた。そのため参加車両は多く、ヨーロッパから遠征してきた競合も加わった関係で毎年予選落ちが出るほど盛況だった。 このレースでファンが熱狂したのは国内のトップ・ドライバーがほぼオールスターで参戦したことと、日本のサーキットでは見かけないヨーロッパで話題のクルマが出走したことだ。このうちクルマで代表的な車種は第1回および第2回の覇者であるボルボ240ターボ、イギリスのTWRが持ち込んだジャガーXJ-S、オーストラリアのホールデンコモドールなどだ。そして87年の第3回以降はフォード・シエラが猛威をふるうようになる。 フォード・シエラが速かった理由は排気量2000ccながらエンジンが小型軽量の直列4気筒でバランスがよかったからだ。これに対して日産・スカイラインGTS-R、トヨタ・スープラなどの総合優勝を狙える国産車はいずれも直列6気筒のためフロント・ヘビーで、コーナリングに難があった。そのため88年になると国内もフォード・シエラを購入するチームが増えていた。 こうして迎えた89年インターTECで、話題の中心は国内勢VSヨーロッパ勢ではなく、決勝進出41台中9台を占めたシエラのなかでどれがもっとも速いかだった。いうまでもなくこれだけ同一車種が揃い、しかもすべてがワークスではないプライベート参戦となると、勝敗のポイントはタイヤになる。 このレースで特に注目されたのは前年の覇者であり、ダンロップタイヤを装着するK・ニーズビーツとA・モファッドのシエラと、84年のWRCチャンピオンであるS・ブロンクビストと元F1ドライバーであるS・ヨハンソン、それにグラベットが走らせるシエラだった。とくにニーズビーツ/モファッド組のシエラはボルボ240ターボでもインターTECを制したエッゲンバーガーのチューンで、仕上がりのよさで練習走行から注目されていた。 それでも予選は「日本一速い男」星野一義が意地のタイムアタックを決めてポール・ポジションを獲得している。そのあとを長坂尚樹/M・S・サラ/J・クロスノフ組のシエラ、土屋圭市/D・ケネディ組のシエラと続き、ニーズビーツ/モファットは4位、ブロンクビスト/ヨハンソン/グラベット組のシエラは10位にとどまっていた。 決勝で最初に速さを見せつけたのは予選2位の長坂/サラ/クロスノフ組で、そのあとを土屋/ケネディ組、さらにニーズビーツ/モファット組のシエラ勢が続く。これに対してポール・ポジションからスタートした星野/北野元組はタイヤ・バースト、星野組同様優勝候補の一角に長谷見昌弘/A・オロフソン組はブレーキ・トラブルで戦列を去って行く。 こうしてレースは3台のシエラ勢が上位を形成し、中盤以降は土屋/ケネディ組が首位、ニーズビーツ/モファット組が2位という展開のレースとなり、同一ラップのまま終盤へともつれ込んでいった。ここで序盤をリードしていた長坂/サラ/クロスノフ組のシエラはクラッチトラブルにより76周目に息の根を止めている。 まさにそのタイミングで、それまで安定して2位を走行していたニーズビーツ/モファット組のシエラが首位に立った。そしてそれまで温存していた力を吐き出し、後続を3秒も引き離すスパートで一気に差を広げている。これに対して中盤までトップ・グループを形成していた土屋/ケネディ組もこの猛スピードにはついていけず、最後はタイヤが限界になって2位の座からも陥落することになった。 そして終わってみれば終始2番手をキープし、勝負所でタイヤのパフォーマンスを最大限に引き出す走りで後続を引き離したニーズビーツ/モファッド組が優勝している。2位との差は約1分、しかし、終盤までライバルを射程内に捕らえて勝負所で一気にケリをつけた、タイム差以上の圧勝だった。2位は関谷正徳/小河等組のトヨタ/スープラ、3位は終盤までよく食らいついた土屋/ケネディ組で、注目されたブロンクビスト/ヨハンソン/グラベット組は2周遅れの5位だった。 (黒井尚志) |
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