あらゆるスポーツで外国人助っ人選手の出来不出来がチーム力に大きな影響を及ぼす。これは野球やサッカーを見れば一目瞭然だろう。モータースポーツも例外ではなく、今や外国人助っ人ドライバーは欠かせない存在となっている。そのなかで本格的に活動拠点を日本に置いてフルシーズンを闘った最初のドライバーがイギリスからやってきたジェフ・リースだ。 彼は1951年生まれで、この世界ではやや遅く20歳で本格的にモータースポーツを始めている。そして27歳になった78年にエンサインでF1にデビューした。翌79年からはティレル、シャドウ、エンサイン、ウィリアムズからF1にスポット参戦している。しかし、いずれも当時は泡沫チームにすぎず、予選通過すら覚束ない有様だった。 その為81年にはヨーロッパF2にステップダウンし、年間タイトルを獲得している。だが、一発の速さはあったがその後もF1でチームに恵まれることはなかった。彼が日本に初めてやってきたのはそうした最中の81年で、全日本F2最終戦にスポット参戦している。翌82年もスポット参戦したリースは翌83年、生沢徹の率いるチームi&iに招かれ、全日本F2選手権にフルシーズン参戦することになった。 しかし、シーズン開幕当初、リースはチャンピオン候補に挙げられていたわけではない。最有力視されていたのは2年連続チャンピオンとなったホンダ・エンジン搭載のマーチ832を操る中嶋悟だった。同じくマーチ832に乗る「日本一速い男」星野一義もエンジンは非力なBMWながら侮れない存在だったのはいうまでもない。 これに対してリースはエンジンこそパワーに勝るホンダだったが、シャシーは日本のサーキットに不向きと考えられていたスピリットだった。これに強力なグリップ力を誇るダンロップタイヤを装着し、現在よりはるかに目の粗い特殊アスファルト舗装を施した日本のサーキットでスピリットのボディは剛性不足と思われていたのだ。 実際、シーズンが開幕するとこの予想は見事に的中している。リースは予選でポールポジションの中嶋より3秒も遅い10位に沈んだのだ。それでも雨の決勝は安定して走り6位に入賞していた。第2戦は決勝で4位に順位を上げたが、これはコース上でスピンしたクルマの処理を巡ってドライバーと競技長が対立し、星野、中嶋、松本が出走を拒否した故の結果だった。 リースは続く第3戦の西日本サーキット(山口県)で全日本F2初勝利を上げている。これは運に恵まれた結果でもあるが、悪いながらもクルマのセッティングを詰めて粘り強く2位を走り続けていた成果でもあった。実はこのレースで非力なBMWエンジンを使用する星野はパワーに優るホンダに対抗するため、燃料を限界まで減らしてクルマを軽くする作戦で臨んでいた。この作戦は功を奏し、星野は2位以下に大差をつけて独走している。しかし、最終ラップの最終コーナーで無念のガス欠となり、リースに初優勝が転がり込んだのだ。そしてこのレースでリースはポイントリーダーに駆け上がっている。 リースの幸運はそれだけではなかった。7位に終わった第4戦のあと、第5戦でも予選から驚異的な速さを見せていたのはやはり星野だった。しかし、リースも日本のサーキット向きではないスピリットを操り、しぶとく2位まで順位を上げていた。そしてレースはそのまま終わると思われた矢先の終盤に、星野がエンジントラブルで脱落し、リースに2勝目が転がり込んでいる。 そして迎えた第6戦、リースはついにマーチ832を手に入れ、同一条件で臨むことができるようになっている。こうなるとダンロップタイヤとの相性も抜群で、予選では2位を約0.6秒も引き離してポールポジションを獲得している。決勝はいうまでもなく悠々の一人旅だった。次の第7戦でリースは5位に終わったが、堂々のポイントリーダーで最終戦を迎えることになった。 その予選で、これまでの7戦中4戦でポールポジションを獲得した星野は2位に甘んじている。ポールポジションを獲得したのは中嶋、リースは3位だった。しかし、決勝に入ると様相は一変する。ダンロップの決勝用タイヤがズバリと当たったリースは一瞬にして首位に立つや、ベストラップを更新しながら圧倒的な速さでコースを駆け抜けていった。そして終わってみれば2位の中嶋を32秒も引き離す圧勝だった。このレースの結果次第ではチャンピオンの芽もあった星野は3位に終わっている。 それにしてもタイトルこそ取ったものの、ダンロップの技術者にとってこれほど厳しいシーズンはなかったかもしれない。実は、リースはけっしてタイヤの使い方がうまいドライバーではなかったのだ。一発の速さでは際立っていたものの、F1で大成しなかった理由もそこにあるのではと指摘する声は確かにある。彼と時代を共有していた日本人ドライバーの一人はこう言った。 「レース終了後にリースのピットに行って必ずタイヤを見ていたが、どのレースでも表面がささくれ立っていた。追いかけているときだけでなく、前を走っているときもバックミラーを見ながら、こんな走りだと終盤にタイヤがかなり厳しくなると思っていた」 しかし、その走りではとうてい持たないと思われていたダンロップのタイヤは、どのレースでもゴールまで確実に耐えていた。それはある意味で理想のタイヤだったかもしれない。ゴールのあともなお、十分使用に耐えうるタイヤなどレースでは無用だからだ。ただ、最後まで持たせるタイヤにするためにダンロップの技術者と職人が極限まで努力したのは間違いないだろう。1983年の全日本F2選手権はその成果を存分に発揮したシーズンだった。 その後、リースは耐久マシンやツーリングカーなど全日本のタイトルが懸かった全カテゴリーで92年までフル参戦し、01年までスポット参戦した。これだけ長い間、国内の第一線で活躍を続けた助っ人は他にいない。 (黒井尚志) |
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