1990年
JSPCのターニング・ポイント 猛暑の富士500マイル
 国内モータースポーツが空前の人気に沸いていた1980代から90年代前半に、最大の集客力を誇っていたのが全日本スポーツプロトタイプ選手権(JSPC)だった。そのピークにあった1990年に、ダンロップ・タイヤを装着したYHPニッサンR90CPに乗る長谷見昌弘がチャンピオンに輝いている(長谷見のパートナーであるアンデルス・オロフソンは走行距離の関係で2位)。この年のタイトル争いでもっとも注目されたレースが7月22日に開催されたシリーズ第3戦の富士500マイルだった。

 1990年富士500マイルがファンの熱い視線を浴びていたのにはわけがある。トヨタ、日産は1980年代半ばからグループCという燃費制限付き排気量無制限の耐久レース専用モンスター・マシンでJSPCに挑んでいた。しかし、当時のJSPCはより完成度に優るポルシェ956/962の独壇場で、国産マシンはその引き立て役にすらなれなかった。

 ところが、1988年にトヨタ88C-V、1989年にニッサンR89Cが登場すると状況は一変、一発の速さではポルシェを凌駕するようになっていた。そして車両、エンジンとも熟成が進んだ1990年にはついにポルシェの性能を上回るようになり、同年のル・マン24時間ではダンロップ・タイヤ装着のニッサンR90Cが国産車として初めてポール・ポジションを獲得している。残念ながら決勝ではニッサンがギアボックス・トラブルや燃料漏れなどで5位にとどまった。トヨタも6位に終わったが、日本のグループCカーが世界最速の部類に属することを世界のモータースポーツ・ファンにまざまざと見せつけていた。

 そのニッサンR90CPとトヨタ90C-Vがル・マンから帰国して最初に挑んだレースこそ富士500マイルだった。しかし、このレースはニッサン対トヨタの図式で勝敗が決まるほど単純だったわけではない。最大の敵は他チームのクルマでもドライバーでもなく「猛暑」だったからだ。

 日本の最高気温は一般的に梅雨明けからの10日間に記録されることが多い。したがって富士500マイルは1年でもっとも暑い時期に開催されるレースで、熱対策が重要な意味をもっていた。これはラジエーターやインタークーラー、ブレーキの冷却だけでなくコクピット内の通気も重要で、ときに暑さに耐えきれず緊急ピット・インするドライバーも珍しくなく、暑さとも闘わなければならない耐久レースでもある。

 しかし、それ以上に耐久性を問われるのがタイヤだ。なにしろコース上に日陰は皆無で、路面温度は50度を超えるからだ。しかも当時のグループCカーは常用回転域で軽く80kg-m/rpm以上という強烈なトルクを誇っていた。これは当時のF1に比べて2倍以上もあり、星野一義はこう証言する。

「ふつうはトップギア(グループCカーは5速)に入れると速度はあまり上がらないが、当時のグループCカーは直線で5速に入れても4速と同じように1コーナーのブレーキングポイントまで加速した。だから直線で左足をブレーキ・ペダルに乗せて、ブレーキが効くことを確認しながらでないと恐ろしくて走れなかった」

 そして長谷見も、「私も直線で左足をブレーキ・ペダルに乗せていた」

と証言する。これほど強烈なトルクを誇るクルマが路面温度50度を超える猛暑の中で疾走するのだから、タイヤの負担は尋常ではない。そのためタイヤのグリップ力が失われやすいだけでなく、ブレーキ・トラブルとバーストが頻発する可能性さえもあったのだ。

 その富士500マイルでスタートからゴールまでほぼ完璧にレースをマネージメントしたのが長谷見/オロフソン組のYHPニッサンR90CPだった。長谷見は前日の予選から絶好調で、タイヤの性能を限界まで引き出してポール・ポジションを獲得している。

そして決勝でも先行するミノルタ・トヨタ90C-Vを視界に捉える範囲内で追尾し、暑さによる体力の消耗を抑えるため無謀なハイペースを避け、タイヤを温存しながらエンジンにも負担をかけず安定した走りでレースを進めていた。そして終盤に勝負を賭けるべく途中のピット・ストップでブレーキパッドを2回交換している。

 だが、長谷見/オロフソン組は結果的に最後の勝負に出ることはなかった。それまで首位を走っていたミノルタ・トヨタ90C-Vが猛烈な暑さによるエンジン・ブローでリタイヤしたのだ。そのためライバルのいなくなった長谷見/オロフソン組は2位を2周引き離して優勝している。その2位に入ったのもダンロップ・タイヤ装着の日石トラスト・ポルシェ、3位は最初のピット・ストップでエンジンの再始動に手間取り最下位まで落ちながら、猛烈なタイムで挽回したダンロップ・装着のカルソニック・ニッサンR90CPで、ダンロップは4位のマツダを加えて上位を独占している。

 その後、長谷見/オロフソン組は第5戦の菅生も制し、ポイント・リーダーに躍り出ている。そして最終戦は雨の富士スピードウェイ。このレースで長谷見/オロフソン組は雨が小降りになったところを見計らって浅溝のレインで勝負を賭けるも直後に豪雨となって順位を落とすという不運に2度見舞われている。しかし、最後は手堅く深溝のレインに履き替えて5位に入賞し、ついにシリーズ・チャンピオンに輝くことになった。

 グループCカーというモンスター・マシンの競演となった1990年JSPC、そのタイトル争いでターニング・ポイントになったのは間違いなく7月に開催された富士500マイルで、あの猛暑の中でダンロップは終始安定したパフォーマンスを発揮している。のちに長谷見はこう語った。

「ドライバーの気力が充実しているだけでレースに勝てるわけではない。勝つときはクルマもエンジンもタイヤも最高の状態にあるもので、そのひとつでも欠けていれば結果は伴わない」



(黒井尚志)

1990年富士500マイルを制した長谷見/オロフソン組のニッサンR90CP



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