全日本ラリー選手権で綾部美津雄ほどファンを熱狂させたドライバーは他にいないだろう。このニックネームは小さな体とは対照的に豪快な走りを見せることからつけられている。1947年に生まれた彼がラリーに参戦し始めたのは1960年代末だが、本人はそのことを正確に知っているわけではない。 「いつ頃から走り始めたのかなー。1960年代でしたっけ。とにかく40年以上は走っています。今でもたまに参戦しますよ」 綾部はデビューから現在に至るまで様々なクルマを操ったが、キャリアの多くをダンロップで走り続けている。言うまでもなくタイヤを信頼しているからだ。 しかし、初めて全日本ラリーの年間チャンピオンになったのは意外と遅く、1986年のことだった。そのときすでに39歳になっていたのだが、これには理由がある。彼はモータースポーツショップ・アヤベの経営者だった関係で、ラリー専業の純然たるプロではない。そのため十分な体制で臨んでいたわけではなく、練習時間にも限りがあったからだ。綾部を古くから知るラリー・カメラマンの坂本広志氏は語る。 「もし彼がドライビングに専念していたらもっとタイトルを取ったのではないでしょうか。とにかくテクニックは卓越しており、60歳を過ぎた今も圧倒的に速いですね。ただ、年齢と共に視力が衰えるのは避けられません。そのため夜のステージになるとタイムは落ちますが、昼間ならまだ若手には負けませんよ」 彼がいかに長い間、全日本のトップ・ラリーストとして君臨していたかはその後の成績でも明らかだろう。二度目のチャンピオンに輝いたのは1988年で41歳、三度目は1990年で43歳、そして54歳になっていた2001年に四度目のチャンピオンになっている。この間、1992年を除いて未勝利に終わった年はなく、全日本のトップ・カテゴリーで毎年勝ち続けた。ではその中のどの勝利がもっとも印象的なのか。その問いに綾部は意外な回答をした。 「とくにこれというのはないなー。初めての四駆だったレオーネでタイトルを取った86年、ブルーバードに乗った88、90年、インプレッサに乗った01年、みんなそれぞれ印象がありますね。それにしてもショップ経営なんかしないでラリーに専念していればもっと勝てたかもしれませんが、それはそれですよ」 綾部はそう言って笑う。したがってこの男について特定のラリーにスポットを当てて紹介するのは無意味かもしれない。それでも、彼がタイトルを取ったなかでもっとも圧巻だった1990年について触れておかなければならない。 この年、開幕前にもっともタイトルに近いと言われていたのが前年チャンピオンの三菱ギャランに乗る桜井幸彦だった。これに加えて西尾雄次郎、大庭誠介、山内伸弥らの大物がギャランで参戦していた。これに対して綾部は松本誠、高崎正博らとともにブルーバードで参戦していた。そしてこのブルーバードには改良が施されていた。実は前年の89年にギャランが猛威をふるったのはエンジンの排気量がブルーバードの1800ccに対し2000ccだったからだ。 そこでブルーバードもギャランに対抗すべく、エンジンを2000ccに拡大している。これによりクルマのパワー差はなくなり、ドライバーとタイヤの差が順位に直結することになった。しかし、当時を知る日産の関係者によると、 「あのときクルマを用意したのは綾部さん自身で、ワークス参戦ではありませんでした。これはカラーリングを見れば一目瞭然で、日産ワークスなら社色のトリコロール・カラーになっていますよ」 という。しかもサービス・クルーは綾部が経営するモータースポーツショップ・アヤベの若手だった。そうした事情もあって最初から力を発揮したわけではなく、シーズン初戦は6位、第2戦は後方に沈みノーポイントに終わっていた。しかし、第3戦で同じくブルーバードに乗る松本を僅差で退けシーズン初優勝を飾ると、そこから怒濤の4連勝を飾っている。 その4連勝中、綾部が2位以下を大きく引き離したことは一度もない。これはクルマがイコール・コンディションだった為で、どの競技もスペシャルステージのタイムが目まぐるしく変わる展開だった。その為2位以下の順位は毎回入れ替わっていたが、ダンロップ・タイヤの特性を熟知していた綾部だけはミスをすることなく走り続け、シリーズ8戦中6戦を終えた時点で圧倒的なポイント差でタイトルを確定している。 そして第7戦から綾部は翌年を見据えて登場したばかりのパルサーGTi-Rに乗り換え、勝つことではなく熟成を兼ねた参戦に切り替えている。結局、この年の綾部はパルサーで参戦した終盤の2戦も加えて8戦4勝という圧倒的な成績を残すことになった。 綾部がその後も長く活躍できた要因は卓越したチューニング技術の持ち主だったことに加え、研究熱心でもあったからだ。前出・坂本氏は語る。 「路面状況が刻々と変わるウインター・ラリーでひとつのステージが終わったあと、ダンロップの技術者とタイヤの性能を最大限に生かすためにどう走ればいいか熱心に語り合っていたことがありました。そのとき私が撮影ポイントで見た走行ラインについて話すと『彼はどうだった』『その次の彼は』と次々に質問するんです。そこでダンロップの技術者も『そうだ綾部さん、その走りですよ』と言うと、その意見を取り入れて次のステージで生かしていました。そのように人の話に耳を傾ける人だったことも速さの要因でしょう」 そしてリトルジャイアントと呼ばれるようになったあの豪快な走りについて綾部はつぎのように述べている。 「ギャラリー受けを狙って走ったわけではなく、クルマとタイヤの特性を生かしてロスなく走ることを追求した結果だった」 さらに昔と現在のラリーの違いについてこう語った。 「昔はコースが非公開でペースノートもなく、ぶっつけ本番でした。だからコーナーに入ってもその先がどうなっているかわからなかったけど、勝つためにはリスクを冒して攻めなければなりません。そのため当時はスピンやコースアウトが多かったけど、機械みたいにペースノートの指示通り走る今のラリーよりもずっと楽しかったですね」 彼が60歳を過ぎても走り続ける理由、それは何よりもラリーが好きで、しかも今なお優勝争いに加われるからだろう。実際、60歳を過ぎても勝利を記録しているのだから。彼は間違いなくラリー界の怪物だ。 (黒井尚志) |
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