1990年
JSPC 富士1000km ローランド・ラッツェンバーガー
 1990年の全日本スポーツプロトタイプ選手権(JSPC)最終戦は10月7日に富士スピードウェイで開催された。その日は台風21号が屋久島の西から九州に向かって移動中で、その影響を受けた秋雨前線が日本列島を縦断するように停滞していた。そのため富士スピードウェイは朝から厚い雲に覆われ、時折強い雨に見舞われる不安定な天候だったにもかかわらず早朝から続々とファンが詰めかけ、4万人を越える大観衆で埋め尽くされていた。

 これだけ多くのファンが詰めかけた理由は、JSPCに参戦していたグループCカーが最高出力800ps、最大トルク80kg-mを超える怪物マシンだったことに加え、国産車がそれまで世界の耐久レースをリードしていたポルシェ956/962を凌駕するようになっていたからだ。その有力な国産車の1台がサード・レーシングから出走したローランド・ラッツェンバーガー/長坂尚樹組のデンソートヨタ90C-V/ダンロップだった。

 それにしても1992年まで続いたJSPCで、このときほど困難なレースはなかったといっていい。スタート直後パラつく程度だった雨が急に激しくなり、すぐに止んでは再び激しさを増して、路面状況を予測するのがほとんど不可能だったからだ。そのため各チームはスリック、カット・スリック、レイン、スーパーレインとあらゆるタイヤを準備しておかなければならなかった。しかし、給油とタイヤ交換のため約50分ごとにピット・ストップしていたが、ピットアウトから5分もしないうちにコース状況が激変し交換したタイヤがまったく合わないチームが続出する有様だった。

 レースは最初から波乱の展開となった。最初に犠牲となったのは優勝候補の一角と思われた鈴木恵一/黒沢琢也組のミノルタ・トヨタ89C-Vで、わずか10周でリタイヤしている。つぎに犠牲になったのはポール・ポジションからスタートした長谷見昌弘/アンデルス・オロフソン組のYHPニッサンR90CPだった。彼らは中盤に雨が小降りになったのを見計らって勝負をかけるべく、浅溝のレイン・タイヤに交換している。ところが、3周ほど走ったところで止みかけた雨が豪雨に変わり、トップの車より3秒も遅くなってしまった。

 「ピットを出たときは行けると思ったが、急に雨がひどくなって『しまった』と思った」(長谷見)

 悪事は重なるもので、彼らはつぎのピット・ストップで今度こそ雨は弱まると判断、やはり浅溝のレイン・タイヤを選択した。しかし、ピット・ロードを出たところで突然雨が強まり、オロフソンは本コースとの合流点でアクセルを踏んだ瞬間にスピンし6位まで順位を落とすことになった。

 他チームにも魔の手は襲いかかり、終盤の190周目にはクラッチ・トラブルを抱えていたピエール-アンリ・ラファネル/関谷正徳/小河等組のミノルタ・トヨタ90C-Vが100Rでコースアウトしている。

 優勝候補が次々に脱落するこの乱戦の中で、レースは中盤からラッツェンバーガー/長坂組のデンソートヨタ89C-V/ダンロップと星野一義/鈴木利夫組のカルソニック・ニッサンR90CPの争いとなった。このレースでサード・レーシングが前年型の89C-Vを出走させたのは、足回りが不安定な最新の90C-Vよりも熟成が進んでいる前年型のほうがパフォーマンスに優ると判断したからだ。このクルマでラッツェンバーガーは豪雨の中を安定して走り、雨が弱まるとレイン・タイヤを冷やすため水溜まりを拾いながらラインを変えて走っている。

 こうしてラッェンバーガー/長坂組と星野/鈴木組の2台は終盤まで同一ラップの激しいバトルを展開しながら、最後の給油/タイヤ交換を迎えることになった。先にピットに入ったのは星野だった。このとき雨はほとんど止みかけていたが、星野は、「コースの一部に雨水が流れていて、レイン・タイヤでなければ走れない」と報告している。しかし、カルソニック・ニッサンの水野和敏監督は御殿場に待機させていたスタッフから無線で、西から雨が上がり始めているとの報告を受け、レースの途中でコースはドライになると判断した。

 一方、サード・レーシングの加藤眞代表兼監督はデンソートヨタ89C-Vの燃料タンクが空になる直前までピット・インのサインを出さなかった。目まぐるしく変わる天候が最後にどうなるかをギリギリまで粘って見極めるためだった。彼の判断は正しかった。デンソートヨタ89C-Vが最後のピットに入ったとき、再び雨脚が激しくなってきたからだ。

 そして豪雨で真価を発揮するダンロップのスーパーレインで一部が川と化した富士スピードウェイを攻め続け、追走するカルソニック・ニッサンR90Cを約1周引き離して見事に優勝を飾っている。これはダンロップのレイン・タイヤの性能とサード・レーシングのマネジメント、そしてラッツェンバーガー/長坂の卓越したテクニックによる会心のレースだった。のちに加藤はこう語った。

 「勝因は無謀な賭を避けて堅実な判断を下したことだ。ドライバーもよく走ってくれた」

 このレースで決勝に出走したのは18台だがコースアウトの続出で完走は8台、そのうち6台がダンロップ・タイヤの装着車だった。そして一度は6位まで順位を下げたダンロップ・タイヤ装着の長谷見/オロフソン組はその後粘り強く走り5位に入賞した。これによりオロフソンより走行距離が長かった長谷見が1990年のJSPC年間チャンピオンに輝いている。




 卓越したドライビングスキルを発揮したローランド・ラッツェンバーガーとサード加藤代表の付き合いはその前年にさかのぼる。

 1989年のシーズン開幕前にロンドンを訪れた加藤代表はイギリスのレース関係者に「新型のグループCカーをテストするので、腕のいい若手を紹介してほしい」と打診している。そのとき加藤代表が滞在していたホテルに現れたのがローランドだった。テスト結果は上々だった。そこで加藤代表はサード・レーシングのレギュラードライバーとして契約、日本滞在中の住居を確保するため浜名湖に近いマンションの一室を借りクルマを一台貸与している。以後、日本にいる間、ローランドはそのマンションを起点にレース活動することになった。

 チームとの関係は良好だった。しかし、1993年シーズンの終了後、ローランドは加藤代表にこう言った。「来年はF1に出走します」それは一方的な通告だった。加藤代表は言った「F1も二流までならいいが、三流チームなら相手にするな」だが、彼は耳を貸そうとしなかった。それでも年が明けた1994年3月に加藤代表はル・マン24時間に向けたテストをすることになり、ローランドにも予定を報せている。もしそのテストに現れたら、それまでのことを不問にして再契約するつもりだったのだ。だが、ローランドは現れなかった。

 ところが、それから1ヶ月もしないある日、ローランドは連絡もせずにフラリとサード・レーシングを訪れている。そのとき加藤代表が、

 「おまえ、齋藤さん(治彦氏=当時のトヨタ・モータースポーツ部長でのちのアイシン精機社長)に挨拶したか? 電話くらいしろよ」と言うと、「わかりました。齋藤さんにも挨拶します」と答えたという。そして同年4月の最終週、F1サンマリノGPに参戦するためイタリアにやってきたローランドはマツダの大橋孝至監督と偶然に会い食事を共にしている。彼がサーキットに散ったのはその週だった。サンマリノGPの予選タイムアタック中、彼が操るマシンのフロント・ウィングが脱落、時速300km超でコンクリート・ウォールに激突したのだ。

 この予選をサード・レーシングのスタッフが偶然に観戦している。彼らは休暇を利用し自費でやってきたのだ。そして事故発生後すぐ加藤代表に電話で、

 「ローランドが事故を起こして病院に運ばれました」と連絡した。だが、のちに加藤代表はこう証言している。

 「イタリアから電話だと言われたとき、すぐにピーンときました。だから話を聞いたときは『たぶんもうだめだろう』と答えました」

 加藤代表の勘は正しかった。ローランドは即死状態だったからだ。もしあのとき、彼が加藤代表の忠告を聞き入れていたら――いや、世の中にすべからく「もし」はない。ただ、ひとつだけ言える確かなことがある。それは彼が日本で走っている間、ファンにもチームにもライバルたちにも愛され、輝きを放った記憶に残るドライバーだったということだ。



(黒井尚志)

富士スピードウェイの最終コーナーを首位で立ち上がるローランド・ラッツェンバーガー/長坂尚樹組のデンソー・トヨタ90C-V/ダンロップ。



この日の雨はときに視界を遮るほど激しく、ときに収まる気配さえもあった。路面状況も刻々と変化し、タイヤの選択が勝負の鍵となった。



優勝したラッツェンバーガー(右)と長坂尚樹(左)。ラッツェンバーガーにとってこれが全日本スポーツプロトタイプ選手権(JSPC)初勝利だった。