1996年
RACラリー 神岡政夫
 世界ラリー選手権(WRC)の最終戦となるウェールズ・ラリー・オブ・グレートブリテンは1997年までRACラリーと呼ばれていた。コースはウェールズを中心とした一般公道とロイヤル・フォレスト・ロードで、日本の国有林道を含む地方道に相当する。このラリーは毎年11月下旬に開催されることが多く、ヨーロッパのレース・シーズン終了直後ということもあり、昔から多くのサーキット・ドライバーが参戦することでも知られている。

 そのRACラリーを権威づけていたのは、スタート直前に主催者がナビゲーターにノートを渡すまで競技ルートを一切知らせなかったことだ。そしてナビゲーターは主催者から渡された初めて見るノートを読み続け、ドライバーはひたすらそれを信じて未知のルートを攻め続けていた。このように全ルートを未知の区間で設定していたWRCのイベントは他にない。加えて沿道に集まる観衆は最大800万人にも及ぶ世界最大のモータースポーツで、RACの勝者こそもっとも偉大なラリーストとして賞賛されていた。

 しかし、毎年開催されれば一部の区間が過去のルートと重複することは避けられない。そのため参戦回数の多いドライバー/ナビゲーターの組み合わせが有利になることから、コースが事前に公表されるようになった。それでも11月下旬は雨と霧と雪に見舞われることが珍しくなく、ときにはルートがアイスバーンと化すこともある。そのため現在もWRC屈指の厳しい条件下で競われることに変わりはない。
 
 その伝統あるRACラリーで総合2位に入賞した日本人の強者がいる。神岡政夫だ。彼は1957年生まれで1980年から全日本ラリー選手権に挑み、同年に早々と優勝、参戦3年目の1982年に24歳の若さで全日本のタイトルを奪取している。この最年少記録は現在も破られていない。神岡は雪国の富山県出身で、とくにウィンター・ラリーには滅法強く、ダンロップのスタッドレス・タイヤを装着して桁違いの速さを発揮していた。  
 1994年からは活動の舞台を海外に移し、翌1995年のRACラリーで総合9位になり、そのテクニックが世界で通用することを証明している。さらに1996年のポルトガル・ラリーでは総合4位に入りワークス勢をも驚かせた。そして迎えた同年のシリーズ最終戦RACラリー、このとき神岡はポルトガル・ラリーのさらに上を行く3位を目標にしていると語っていたが、のちに、
 
「実際にはワークス勢に勝てるとは思っていませんでした。クルマも体制もまったく違いますから。ワークスの次くらいの順位は狙っていましたが」

 と語っている。それも無理からぬところだった。というのも神岡のクルマはスバルのワークス活動を担うイギリスのプロドライブが製作したものだが、最新のワークス仕様ではなかったからだ。しかも、ワークスは路面の凍結状況を正確に知るため事前にアイスノート・クルーを走らせるが、プライベート参戦の神岡は走りながら前方のアイスバーンを自分で目視するほかなかったのだ。その神岡にタイヤを提供したのがダンロップだった。このときダンロップは国内のウィンター・ラリーで使っていたスタッドレス・タイヤとやや異なる、グラベル(未舗装路)にも対応できるタイプを持ち込んでいる。

 そして競技に先立つレッキ(試走)のときから降っていた雪が神岡陣営に大きく味方することになった。じつは降雪のため神岡は一部区間のレッキを諦めていた。
 
しかし、本番になるとその雪がさらに激しくなり、チーム体制の優劣による差が一気に縮小したのだ。プライベート参戦による神岡はワークスほど十分なスペア・パーツを持っていないため無理な勝負はできなかったが、降雪によるアベレージ・スピードの低下でタイム差が縮小したからだ。しかもWRCチャンピオン経験者のアリ・バタネンやユハ・カンクネンが次々にリタイヤしている。

これに対して神岡もコースアウトやスピンを繰り返しながらも国内ウィンター・ラリーのつもりで果敢に走り続け、SS最速タイムを立て続けに奪って初日を2位で終えている。この快走に、神岡のスバル・インプレッサに装着されたダンロップ・タイヤを触りに来るラリー関係者がたくさんいたという。

 1996年のRACラリーは2日目も天候が回復せず、同年にジョーダンからF1に参戦していたマーチン・ブランドルもリタイヤを喫した。だが、神岡は突然現れる凍結部分を慎重にクリア、気温が上がってコースがウェット・ダート状態になると初日にも増して果敢にアタックし、2日目も2位をキープしている。
 
 しかし、最終日も首位を行くワークス・トヨタのアルミン・シュワルツとの差は縮まらず、結局総合2位で競技を終えることになった。それでもワークス・シュコダのスティグ・ブロンクビストを6分も引き離す、プライベート参戦としては驚異の成績だった。競技終了後に神岡は言った。
 
「一度のラリーでこれほどスピンしたことはない。十数回はしたと思う。だけどこんなに幸せになれたことはない。これもパンクレス・タイヤのランフラット・システムを投入してスタッドレス・タイヤの性能を世界に知らしめたダンロップや、ワークス・インプレッサを提供してくれたプロドライブ、STIのスタッフが支援してくれたおかげで、いくら感謝しても感謝し足りないくらいだ」

 神岡は翌1997年もポルトガル・ラリーで総合6位に入賞、前年のRACラリー総合2位がフロックでないことを世界の前に証明した。その後、神岡は全日本ラリー・チームの監督を務めたあと、現在は郷里の富山県高岡市でモータースポーツ・ショップの「PROJECT K」を経営している。


(黒井尚志)

右から二番目が神岡政夫、その右がコ・ドライバーのK.ゴムレー。このあと神岡は優勝したシュワルツ(右から4番目)から顔面にシャンパンを浴びせられ、表彰台から滑り落ちている。



ウェット・ダートを果敢に攻める神岡。幾度となくスピン/コースアウトを繰り返したが致命的なミスは犯さず、SS最速タイムさえ奪ってみせた。



新雪のコースを駆け抜ける神岡のインプレッサ。ダンロップのスタッドレス・タイヤは抜群の性能で、他チーム関係者の多くがタイヤを触りに来た。