ル・マンを制する者は世界を制す――1923年に第1回大会が開催されたこのレースは過去に幾多の名車を排出してきた。その中で最強の怪物といえば1980年代を席巻したポルシェ956/962ではないだろうか。この怪物が登場したのは1982年のことで排気量は2.65リッターだった。これは排気量無制限ながら厳しい燃費規制が課せられたグループCというカテゴリーが導入された初年度に登場している。その強さは圧倒的で、同年のル・マン24時間にワークス・ポルシェが持ち込んだダンロップ・タイヤを装着する3台の956はゼッケン番号通り1、2、3位を独占し、世界に衝撃を与えることになった。 そのため翌年から有力プライベートチームは続々とポルシェを購入し、ワークスに敢然と戦いを挑んでいる。一方、他のワークスは打倒ポルシェを目標に掲げて最新のグループCカー開発を急ぐことになった。その中にはトヨタ、日産、マツダの日本3大ワークス・チームも含まれていたが、ポルシェの厚い壁を突き破るのは容易ではなく、1985年までは影すら踏むことができなかった。 その中で最初にライバルとして登場したのがジャガーだった。ジャガーはダンロップ・タイヤを装着して1950年代に最強を誇っていたがその後ワークス活動から撤退、1984年に復帰を果たしている。ただしこれはアメリカのディーラーチームであるグループ44からの参戦で、ワークス体制で挑んだわけではない。しかし、1986年にトム・ウォーキンショーの率いるTWRがワークス体制で参戦を開始するや、俄然ワークス・ポルシェのライバルにのし上がっていく。 そしてワークス体制による参戦開始から2年目の1987年に、歴史に残る激闘が繰り広げられることになった。この年のル・マンは例年よりオクタン価の低い燃料のため、ターボ・エンジン搭載車は予選から次々にトラブルを起こしていた。新型3リッター・ターボ・エンジンを搭載したワークス・ポルシェ962も例外ではなく予選で1台、決勝でも早々に1台を失ったからだ。そのためワークス・ポルシェは残る1台でやはりダンロップ・タイヤを装着する3台のワークス・ジャガーを迎撃しなければならない苦しい状況に追い込まれていた。 しかし、ワークス・ポルシェはその苦しい状況下で予想外の作戦を展開する。そのままでは規定の燃料を使い果たしてガス欠になる猛烈なペースで走り始めたのだ。これに対して自然吸気式7リッター・エンジンを搭載するジャガーはオクタン価の低い燃料にも十分に対応し、必死に食らいついていった。だが、レースもほぼ半分を経過した2日目の真夜中に1台のジャガーが当時7キロあったユーノディエールの直線でクラッシュする(ドライバーは無傷)。 この事故によりガードレールが200メートルなぎ倒され、その修復のためペースカーが約2時間導入されている。これによりオーバーペースだったワークス・ポルシェはガス欠の不安がなくなり、レースが再開されると再びペースを上げ始めた。真の耐久レースが始まったのはこの瞬間だった。ポルシェとジャガーのどちらが先に潰れるか。先にトラブルを起こしたのはジャガーだった。トラブルはサスペンション、ギアボックス、デファレンシャルと車両全般に及び、そのたびにジャガーは這うようにしてピットに戻ってきた。 それでもイギリスからやってきたファンは徹夜でジャガーに声援を送り、スタンドから離れようとしなかった。勝ったのはワークス・ポルシェ、しかし、満場のファンは敗れたジャガーを勇者として迎えた。そしてレースが終わったとき、ジャガーのメカニックはベニヤ板に紫色のスプレーで、 「" Thank You. We will be back !! "」 という強烈なメッセージを記してスタンドに向かって掲げて去っていった。 そして翌1988年、この二大ワークスはともにダンロップ・タイヤを装着して再び相まみえることになる。このレースは2日目の朝まで同一周回数で、ピットストップのたびに首位が入れ替わる激烈なレースとなった。だが、夜明けとともにジャガーはペースを上げ、ついにワークス・ポルシェを周回遅れにしている。 ところが、レースも残り4時間となったところで最後のドラマが待っていた。1周13.535キロ(当時)のコースのうち約6キロを占めるユーノディエールの直線で局地的な豪雨が降り始めたのだ。この雨でジャガーとポルシェはいずれもタイヤを交換しない賭けに出ている。そして1時間後に雨が上がったとき、両者の差は同一周回まで詰まっていた。だが、ついに順位は変わらず、ジャガーは1957年以来31年ぶりにル・マン24時間を制し、怪物ポルシェ956/962の時代に終止符を打つことになった。 しかし、これをもってポルシェ956/962の最強伝説が完全に終焉したわけではない。この怪物はその後もエンジンを3.2リッター・ターボに拡大し、1990年代初頭までル・マン24時間で優勝争いを演じ続けたのであった。 (黒井尚志) |
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