マツダがル・マン24時間に初参戦したのは1973年で、シグマ・オートモーティブ(現サードレーシング)とのジョイントによる(エントラントはシグマ)。それから6年後の1979年にマツダは単独チームでル・マンに帰ってきた。そして1980年に一度休止したあと1992年まで連続参戦している。だが、少ない予算で、しかも小排気量の自然吸気式ロータリー・エンジンしか持たないため苦戦を強いられていた。
マツダに千載一遇のチャンスが訪れたのは1991年のことだった。この年のマツダは圧倒的なコーナリング速度で強豪ジャガーを凌駕し、レース序盤にしてメルセデスと一騎打ちになっている。そして深夜、メルセデスにミッション・トラブルの兆候が出ていると報告を受けたマツダの大橋孝至監督はラップタイムを3秒上げるよう指示した。これに対してメルセデスは5秒タイムを上げて逃げ切りを図ろうとする。だが、3台参戦していたメルセデスの2台が直後に脱落、無傷で走るのは1台だけとなった。
そして2日目の午後1時、それまで無傷で首位を走っていたメルセデスが残り3時間の時点でついにウォーターポンプを壊してピットに飛び込んできた。この瞬間に勝負は決まり、マツダが首位に立つと満場のファンは総立ちとなって拍手を贈った。マツダはその後も順調に周回を重ね、生き残ったジャガーとの差を広げていった。
ダンロップ・モータースポーツ部長(当時)、京極正明はそれでも勝利を確信できなかった。京極は残り15分になったところで腕時計を凝視している。それから長い時間が過ぎたように思えた。京極は再び時計を見たが、やはり時刻は変わっていなかった。京極はもしやと思い時計を耳にあててみた。だが、時計は正確に時を刻んでいた。京極がマツダの勝利を確信したのは最終ラップだった。こうしてマツダは日本車初のル・マン24時間総合優勝に輝いている。それはル・マン24時間でロータリー・エンジン搭載車の参戦が認められる最後の年ことだった。写真は優勝したゼッケン55番フォルカー・バイドラー/ジョニー・ハーバート・ベルトラーン・ガショー組のマツダ787B。
(黒井尚志) |