1970年代から80年代初頭にかけて、日本でもっとも人気のあるレースは富士グランチャンピオンシリーズ(富士GC)だった。このレースは1972年から排気量2000ccのレシプロまたは1300ccのロータリ・エンジン、1987年からは3000cc未満のレシプロ・エンジンを搭載したレーシングスポーツカーで競われ、1989年まで存続していた。参戦していたのは当時の日本を代表するトップ・ドライバーで、歴代チャンピオンには蒼々たるメンバーが名を連ねる。その富士GCの歴史でもっとも波乱に満ちたチャンピオン争いが展開されたのは1981年だった。 富士GCは年間4戦で争われ、1位から10位までそれぞれ20、15、12、10、8、6、4、3、2、1のポイントが与えられていた。したがって開催数が少ないぶん優勝の価値は大きく、リタイヤは致命傷となる。 そして1981年シリーズ、最初に飛び出したのはダンロップを装着する「無冠の帝王」高橋国光だった。彼は第1戦の予選でコースレコードを叩き出してポールポジションを獲得、決勝でもスタートを失敗したものの、すぐ首位に立つと圧倒的な速さでレースを制していた。国光は続く第2戦も鮮やかにポール・ツー・フィニッシュを決め、開幕2連勝を飾った。この時点で誰もがチャンピオンは国光が獲得すると信じていた。 ところが第3戦で国光はポールポジションからスタートしながらレース序盤でエンジン・トラブルにより大きく後退する。これが波乱の幕開けで、直後に片山義美がやはりエンジン・トラブル、国光車のエンジンもレース中盤でついに息の根を止め、長谷見昌弘もエンジン・トラブル、そして首位を走っていた松本恵二もサスペンション・トラブルでリタイヤと、予選上位陣総崩れの展開となった。 勝ったのは全日本F2でも頭角を現していたダンロップ・ユーザーの藤田直廣だった。この時点で国光と藤田のポイント差はわずか1に縮まっていた。藤田は第1戦で2位、スタートを失敗した第2戦もしぶとく7位に入賞し4ポイントを獲得していた。そして上位陣が総崩れとなった第3戦で優勝し20ポイントを獲得して、ノーポイントに終わった国光に1ポイント差まで肉薄したのだ。 こうして迎えた最終戦、チャンピオンの有資格者はポイント・リーダーの国光、2位の藤田、そして片山、星野一義の4人に絞られていた。このうち星野を除く3人がダンロップを装着しており、いうまでもなく最有力候補は国光と藤田で先着したほうがタイトルを獲得する。その予選でポールポジションを獲得したのはまたも国光だった。これで国光は1981年シーズンの予選を完全制覇したことになる。しかも彼のタイムは予選2位の松本を0.39秒、3位の藤田を0.67秒も引き離しており、優位性は動かないと思われていた。 そして迎えた決勝、国光はスタートで一瞬出遅れたものの、3周目で首位に立つとそのまま独走態勢を築いていった。これに対して藤田はクラッチミートをミスして10位まで順位を落としてしまった。しかも、早々にして異物を踏んだらしく、フロントタイヤを痛めてピットに飛び込んできた。これでタイトルの行方は決したかに思えた。 ところが、レースも中盤をすぎたあたりで、国光が突然ペースを落としてピットに飛び込んできた。そして前輪2本を交換してコースに戻るも、わずか2周で再びピットに戻ってきた。スローダウンの原因はタイヤではなくホイールナットの緩みだった。この2回のピットで国光の上位入賞・1981年富士GCチャンピオンの夢は事実上潰えたといっていい。コースに戻ったとき、国光は周回遅れになっていた。 一方、序盤で大きく出遅れた藤田はタイヤ交換を済ますと猛烈な勢いで前車を次々に抜いていった。そしてレースも残り2周となった68周目には関谷正徳を抜いてついに3位まで上がっている。国光より上位で8位以内なら藤田のタイトルは決定してが、おそらく終盤まで手を抜かなかった理由は表彰台に上がってファンに勇士を見せたいという、彼の意地だったのではないだろうか。 最終戦を制したのは同年の富士で散々不運に泣かされた1979年の全日本F2チャンピオン、松本だった。2位は片山で、彼はシリーズ・チャンピオンシップ・ポイントでも藤田、国光に次ぐ3位に入っている。国光は念願のタイトルを獲得することはできなかった。しかし、彼が無冠の帝王にふさわしい強烈な印象をファンに与えたことは確かだった。 (黒井尚志) |
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