1982年
日本初の世界耐久選手権レース、WEC JAPAN開催
1982年10月2日、日本初の世界耐久選手権レース、WEC JAPAN(正式名称はFIA1982世界耐久選手権富士6時間レース)が富士スピードウェイで開催された。日本での世界選手権レースは同じく富士スピードウェイで開催された1977年のF1GP以来5年ぶりだった。そのためファンの注目度は高く、約5万人を集めた1976/77年のF1GPをはるかに超える8万人以上の大観衆が詰めかけている。しかし、このレースは元々世界選手権として企画されたわけではない。

1979年、大橋孝至監督率いるマツダオート東京(のちにマツダスピードとして参戦)はフランスのル・マン24時間に初めて単独参戦していた。このとき、国内で各種モータースポーツ・イベントを主催していたビクトリーサークルクラブ(VICIC)の本田耕介会長は大橋監督に、「マツダが故郷に錦を飾る場を必ず用意しますから」、と約束している。
そのマツダはル・マン24時間にアメリカのレース・カテゴリーであるIMSAクラスで参戦していた。それでも参戦可能だったし、デイトナ24時間に参戦していたマツダもクルマをル・マン24時間仕様に変更する手間が省けたからだ。そのため本田会長は当初、アメリカのIMSA参戦車を日本に招聘して国産車と混走する耐久レースを開催しようと考え、会長のジョン・ビショップに協力を要請している。ビショップはこれを快諾、1982年10月開催に向けて準備が始まった。こうした関係から、1981年に作られた最初のポスターにはIMSA参戦車の写真が掲載されている。

ところが、年が明けた1982年に状況は一変した。実は世界自動車連盟(FIA)が同年から排気量無制限だが、厳しい燃費制限が課せられたレース専用スポーツプロトタイプのグループCカーによる耐久レースを開催することにしていた。この新レギュレーションに合わせてポルシェは空冷水平対抗2.65リッター・エンジン搭載のポルシェ956を作り上げている。このクルマは同年のル・マン24時間で1位から3位までを独占する桁違いの強さを発揮した。
その様子を見た本田会長は秋に予定していた国際耐久レースにポルシェ956を急遽招聘することを決断、同時にポスターの写真も差し替えている。ここに、最初はヨーロッパ選手権のはずだったグループCカーによる国際レースが日本でも開催されることから、FIAはシリーズの名称を世界選手権に格上げすることになった。こうして10月に富士スピードウェイで開催される耐久レースはWEC(World Endurance Championship)JAPANと命名された。

WECはレース・ファンに新鮮な衝撃を与えることになった。その目玉となったダンロップ・タイヤ装着のポルシェ956は、市販車の改造版にすぎない日本の耐久マシンより直線速度が100km以上も速かったからだ。しかも安定性は抜群で、唯一対抗していたランチアがクラッシュとコースアウトで自滅するのを後目に、6時間の長丁場を独走状態で駆け抜けている。それはまさに衝撃的な強さだった。そしてWECの大成功により、翌年から国内耐久レース・シリーズが始まっている。
ここに有力チームが購入したポルシェ956と、ル・マン参戦を継続していたマツダに加え、打倒ポルシェを目指してトヨタと日産が本格参戦を開始、空前の盛り上がりを見せることになった。

国内耐久シリーズはのちに全日本スポーツプロトタイプ選手権(JSPC)と呼ばれるようになったが、10月第1週に開催される富士1000km(1983年の第2回大会から6時間に代わって1000kmになった)レースだけは1988年までWECの名称で親しまれた。
そしてWECの開催で日本のレーシング技術は劇的に向上し、国産グループCカーは最終的に予選仕様で推定最大トルク120kg-m、最大出力1200psに達している。その意味でも、WECは国内モータースポーツの歴史に大きな変化をもたらしたのだ。ちなみに第1回WECで強烈なインパクトを与えたポルシェ956は1985年に962へと進化し、エンジンも2.65リッターから最終的に3.2リッターまで拡大され、国内では1993年まで現役で活躍し続けた。

WECを開催した本田耕介会長は1985年からツーリングカーによる国際レースのインターTECを企画し同様に大成功を収めている。以後、10月のWECと11月のインターテックは日本を代表する国際レースとして海外でも広く知られることになった。その後も本田会長はモータースポーツの発展に多大な貢献をしたが、2007年5月19日未明に68歳でご逝去した。本田会長は輝くような白髪と笑顔が似合う紳士だった。ご冥福をお祈りしたい。

(黒井尚志)
前を走るのは優勝したジャッキー・スチュワート/ヨッヘン・マス組のロスマンズ・ポルシェ956、後方は中盤まで善戦していたランチア・マルティーニG6。


第1回WECでは国内プライベートチームが市販車ベースの耐久マシンで大挙参戦している。
ダンロップはこれらのチームにもタイヤを供給して参戦を支援していた。