1963年
日産サファリ・ラリー参戦開始
 日産自動車が東アフリカ・サファリラリーへの参戦を開始したのは1963年のことだった。日本の自動車メーカーが国際ラリーに長期連続参戦を始めたのはこのときからで、市販車の性能を海外の車種レベルに引き上げることを目的としていた。しかし、当時はまだ日本車が国際的に認知される前だったことから、海外一流ドライバーとの契約など望むべくもない。そのため当初は実験部所属の社員ドライバー中心で挑んでいた。

 とはいえ社員ドライバーもただ者ではなく、のちにラリーチーム監督、本社実験部長を経て初代ニスモ社長に就任した難波靖治と、難波のあとに監督を引き継いだ若林隆が加わっていた。初代監督は実験部長の笠原剛三で、様々な辛苦を味わった後、1966年にブルーバード410をクラス優賞へと導いた。笠原はこのときの記録を「栄光の5000キロ(のちに栄光への5000キロに改題)」というドキュメンタリーにまとめている。この本はベストセラーになり、1969年には石原裕次郎の主演で映画化され空前のブームを巻き起こした。その後、笠原から監督を引き継いだ難波は1969年にブルーバード510でクラス優賞、チーム優勝を獲得している。

 そして1970年にその時はやってきた。日産は前年同様、総合優勝を争うには排気量が小さくやや非力といわれた1600ccのブルーバード510で参戦、並みいる世界の強豪を相手に、ついに総合優勝に輝いた。同時にクラス優賞、チーム優勝も果たし、ラリー史上初の完全制覇を成し遂げている。

 翌1971年、日産の前に敗北したフォードは主催者を動かし、ブルーバードが得意な曲がりくねった悪路ではなく、エンジン・パワーで勝負できる高速ルートを設定させている。ところが、この意図を知った難波は参戦車両をフェアレディ240Zに変更、エンジンを最高出力225馬力の2.5㍑に拡大し、車高も18センチに上げるという徹底した高速仕様でサファリに乗り込んできた。ダンロップのラリー・タイヤを装着したこのフェアレディZは荒れた熱帯サバンナのコースを時速185キロという信じられない速度で疾走している。そのためフォードは早々に脱落、唯一対抗していたポルシェも終盤でリタイヤを喫した。結局1位はフェアレディZ、5分差の2位もやはりフェアレディZで、3位のプジョーはそれから5時間以上も遅れで、終わってみれば日産の圧勝だった。

 日産は1972年に敗北するが、フェアレディZとブルーバード610で挑んだ1973年は終始他車を圧倒し、同一原点ながら大会規定でZが総合優勝している。こうして「ラリーの日産」の名は世界に轟くことになった。しかし、1973年末に世界を襲ったオイルショックの影響もあり、初参戦からちょうど10年が経過したのを機に、日産のラリー活動は短い休止期間に入っている。そして復帰を果たした1970年代末から1980年代初頭にかけて、日産とダンロップのコンビはラリー・フィールドで第2期黄金期を迎えることになった。

 写真は1973年のサファリ・ラリーで総合優勝を飾ったシェーカー・メッタ/マイク・ディーティー組の日産フェアレディ240Z。このときドライバーだったメッタはのちにラリー界の重鎮として世界自動車連盟(FIA)のラリー委員長を務めたが、2006年4月13日にロンドンの入院先で他界している。

(黒井尚志)