1989年
2002年 衝撃のデビュー・ウィン VEMAC 320R (JGTC)
 国内モータースポーツで最大の観客動員数を誇るSuper GTは1994年に全日本GT選手権として始まり、2005年から現在の名称で開催されている。これは最初からGT500とGT300の2クラスで開催されており、数々の名勝負を繰り広げてきた。

 このうちGT300クラスで最大のインパクトを与えたのは2002年5月に開催された第2戦 富士GTレースではないだろうか。このレースに始めて姿を現したVEMAC(ヴィーマック) R&Dダンロップ320Rは衝撃のデビュー・ウィンを飾っている。

 VEMACを製造するヴィーマック社はイギリスの企業だが開発したのは東京R&Dで、話は1981年にさかのぼる。

 この年、京都の童夢に在籍していた3人の技術者がポルシェのような企業を目指して東京R&Dを設立した。その一人が1976年に富士で開催されたF1に参戦したKE007(本欄「F1選手権インジャパンでDUNLOP参戦。長谷見選手予選一回目4番手」参照)や1979/80年のル・マン24時間に参戦した童夢RL79/80(本欄「童夢――ル・マン24時間に架けた夢」参照)を設計した現社長の小野昌朗だった。

 東京R&Dは企業からの受託研究や設計で実績を積み上げ、1990年代半ばには社員数が150人に達するまでに成長していた。そうしたなかで同社の鈴鹿事業所がネオヒストリックカーレース用オープン2座席のレーシングカー「カドウェル」を製作している。

 これが好評で、ロードカーがほしいという声が上がるようになっていた。そこで1996年に小野は少量生産スポーツカーの開発に向けて検討を開始、旧知の間柄にあったアメリカ人実業家のヴァーノン・フォザリンガムから初期資金を得ている。さらに1998年にはかつてル・マン24時間で同じ童夢チームの一員としてともに戦った元レーシングドライバーであるイギリスのクリス・クラフトの協力も得てスポーツカーの生産販売をする三者合弁のヴィーマック社を設立した。

 こうして体制を整えた東京R&Dは当初要望があったカドウェルのロードバージョンではなく、より快適で安全性にも優れた一回り大きいVEMAC RD180を開発している。そして量産を前にサーキット・バージョンを国内レースに出走させることにした。それこそまさにVEMAC R&Dダンロップ320Rだった。

 VEMACはレースが始まる前から関係者の熱い視線を集めていた。最大の特徴はかつてのグループCカーを彷彿とさせる流麗なフォルムで、とりわけコーナリング性能はかなり高いと思われていた。予選が始まると人々が想像していたとおり、VEMACはコーナリングで抜群の性能を発揮、セッティングがまだ不十分なデビュー戦ながら、あっさりとクラス1位のタイムを叩きだしている。とはいえ決勝で多くを望むものはいなかった。500kmもの長丁場を全開で走れるほど十分なテストをしていなかったからだ。


 それでも決勝が始まると柴原眞介/密山祥吾組のVEMACは他車より1秒近くも早い驚愕的なタイムで着々と周回を重ね、序盤で約20秒の差をつけ独走している。しかし、最初のタイヤ交換に失敗して再度ピットに入らなければならなくなり、あっさりと首位を明け渡してしまった。おまけにペースカーが入るタイミングが悪く、首位との差はさらに広がっている。ところが、レース終盤になって首位を走るウェッズスポーツMR-Sのエンジンが突然吹けなくなってしまった。この機に乗じてVEMACは一気に差を詰め、残り2周の時点で逆転し、見事デビュー・ウィンを飾っている。この勝利にもっとも驚いたのはチームのスタッフとドライバーだった。彼らはレース後の記者会見でこう語った。

 「嬉しいというより驚いている。まさか500kmを完走できるとは思わなかった」(柴原)

 「トラブルで後退したあと、じつは2番手キープの指示だった」(密山)

 だが、続く第3戦、第4戦は懸念された熟成不足によるトラブルにより15位とリタイヤに終わっている。さらに第5戦も予選ではラップタイムで2位を1秒以上も引き離す圧倒的な速さを見せながらセーフティーカーが入るタイミングが合わず、ほぼ1周損したこともあって13位に沈んでしまった。

 こうした不運こそあったもののVEMACの速さは群を抜いていたことから、性能調整のために第6戦 もてぎではエア・リストリクターが1段絞られ50kgのハンデも背負わされることになった。だが、ここでもVENACの予選タイムは落ちず、予選クラス1位を確保している。その秘密はダンロップが中高速コーナーを重視して開発した新規タイヤにあった。柴原は語った。

 「(リストリクターとハンデの影響で)ストレートは厳しいですが、ダンロップが頑張っていいタイヤを作ってくれたから、1周回ったタイムは以前と変わらないんですよ」

 VEMACに装着されたダンロップの新規開発タイヤは決勝でもパフォーマンスは変わらなかった。予選同様に直線で伸びないぶんを圧倒的なコーナリングで稼ぎ、序盤から圧倒的な速さでジワジワと後続を引き離してシーズン2勝目を飾ったのだ。この勝利によりVEMACはトップ・ハンデの80kgを背負わされることになった。

 そして第7戦 MINE、さすがにプラス80kgでは予選クラス1位といかず、2位に甘んじている。それでも決勝はそのハンデをものともせず激しいトップ争いを演じ、最後はライバルの自滅もあってシーズン3勝目を飾った。このレースでも中高速コーナーを重視したダンロップのタイヤとVEMACの相性は抜群で、ウェイト・ハンデにより伸びない直線を圧倒的なコーナリングでカバーしたのだ。

 しかし、年間タイトルのかかった最終戦を前にVEMACは3度目の性能調整でさらに50kgの重量増を命じられていた。これだけ重いとさすがに首位争いは不可能で決勝は7位に沈み、柴原/密山組はわずか2ポイント差で届かずタイトルを逃すことになった。第1戦に参戦しなかったことに加え、リタイヤが1回あったためにポイントを稼げなかったのだ。それでもシーズン7戦中6戦に参戦して3勝、予選クラス1位4回という堂々の成績を残している。この年のGT300で複数回優勝したのは唯一VEMACだけだった。



(黒井尚志)

ポルシェを従えてクラス首位を走るVEMAC R&Dダンロップ320R。これは初勝利を飾った第2戦の富士スピードウェイ。


こちらも富士スピードウェイの一コマ。シーズン後半はウェイト・ハンデに苦しんだがそれでもコーナリング重視のタイヤ投入とセッティングで最高のパフォーマンスを発揮した。