1979年
童夢――ル・マン24時間に架けた夢
日本を代表するレーシングカー・コンストラクターの童夢が初めてル・マン24時間に参戦したのは1979年のことだった。しかし、当時の童夢は優れた工業デザイン集団だったが、レースの専門集団だったわけではない。創業者の林みのる社長は1965年にホンダS600を改造した「カラス」を製作していたがそれはまだ童夢が設立される前のことで、しかも林社長はその後しばらくレース界から遠ざかっていた。

 童夢のル・マン参戦計画は意外なところから始まった。童夢は1975年にオリジナルのスーパーカー製造販売を目指す「童夢プロジェクト」を立ち上げると、最初の試作車である「童夢−零」を1978年のジュネーブ・ショーに出品した。この流麗な試作車は空前の評判となり、香港の映画スター、ジャッキー・チェンが同社を訪れ、「市販するときはぜひ1号車を売ってほしい」と申し入れている。そして玩具メーカーがプラモデルとして発売するや爆発的な人気となった。

 だが、玩具の商品寿命は短いことから、玩具メーカーは新モデルの製作を童夢に強く要請するようになった。その要請に林社長はこう答えた。

「それなら来年は動くクルマを作ってフランスのル・マン24時間に参戦しましょう」

 そして京都のコジマ・エンジニアリングに在籍し、1976年のF1日本GPにも参戦した名機・KE007を設計した小野昌郎氏を引き抜き、社員総出でレーシングカーの設計製作にとりかかった。のちに小野氏は当時を述懐してこう語っている。

「童夢は全員が高度な専門家集団で、私が描いたラフ図面をすぐに原寸大で製図してくれました。だから私自身が清書した図面は1枚もありませんでした」

 また、林氏は笑ってつぎのように語っている。

「当時26人いた社員全員が設計製作に取りかかっており、他の仕事はまったくしませんでした。そのため6ヶ月間、入金がゼロでした」

 こうして完成したクルマは童夢−零RLフォードと名付けられた。搭載したエンジンはF1で全盛を誇っていたコスワースDFVで、F1の9800rpmシフトに対してル・マン24時間は9200rpmシフトの予定だったという。これはコスワース側からの要請だった。装着したタイヤはダンロップでクルマとの相性がよく、最初から高いパフォーマンスを発揮した。

 それを実証したのが本番の予選で、童夢−RLフォードはタイムアタックもしていないのに15、18番手につけている。決勝ではさらに速く、トップ・グループを快走して世界で最速の部類に入ることをまざまざとみせつけた。

 だが、童夢の快走はわずか1時間半で終わってしまう。2台参戦したうちの1台がオーバーヒートで脱落し、最後はエンジン・トラブルで息の根を止めたのだ。原因は元F1ドライバーのトニー・トマリーがスプリント・レースなみに9800rpmシフトで走ったためだった。そしてもう1台はなんとガス欠でコース上に止まっている。こうして最初のル・マン24時間はリタイヤに終わっている。

 翌1980年、童夢は前年型を全面改良した童夢−RL80で挑むことになった。これは紛れもなく当時の世界最速を誇るレーシング・プロトタイプで、ダンロップの専用タイヤも格段に進化していた。それを証明したのが予選で、準備不足の上に予算もヨーロッパの有力チームよりはるかに少ないというのに、3番手のタイムを叩き出している。直線速度にいたっては最速だった。

 ところが、同年のル・マン24時間はコンピュータ計測を開始した1年目で、童夢のタイムに驚愕したヨーロッパの有力チームから、

「コンピュータは正確に作動していない。ウチのチームが計測した手動のほうが正確だ」

 とのクレームが寄せられ、4番手に落とされている。さらに翌日の決勝ではなぜかスターティング・グリッドが7番手になっていた。そして決勝では早々とミッション・トラブルが発生し、3時間近い修復作業を余儀なくされている。

その後も走っている限り童夢は間違いなく最速の1台だったが、マイナートラブルのため容易に順位を上げることができなかった。それでも24時間を走り抜き、日本車初のル・マン24時間完走、25位というリザルトを得ることになった。これがのちに日本の自動車メーカーによるワークス参戦の道を切り開くことになる。

その後も童夢はル・マン24時間および国内耐久レース活動を継続したのち全日本F3000(現在のフォーミュラ3000)に転じ、1994年にマルコ・アピチェラのドライブで年間タイトルを獲得した。また、ル・マン24時間にもヨーロッパのプライベートチームに自社開発車両を提供し、予選でははるかに予算が多く体制も充実したワークスチームと互角の走りを見せて、その技術が世界のトップ・レベルにあることを証明している。

その原点は全員が熱く燃えた1979、80年だったと言っていい。童夢の奥明栄取締役はのちに当時を振り返ってこう述懐している。

「ル・マン24時間の季節になると全員の意識が異様に高揚していたものです」

 その童夢の世界を目指す戦いは今後も続くことだろう。


(黒井尚志)

1980年ル・マン24時間でピット作業中の童夢−RL80フォード。参加車中最速を誇ったクルマでダンロップ・タイヤとの相性も抜群だった。林みのる社長は優れた工業デザイナーで、速いだけでなく美しさも際だっていた。
(写真提供:童夢)



童夢−RL80の透視図。搭載されたエンジンはコスワースDFVで、ウィングの位置は現在のレーシングカーよりかなり低い。これは当時ル・マンのコースに6kmもの直線があることから最高速度を高めるためだった。
(写真提供:童夢)