1983年
1983年 WEC in JAPAN 日本の力を世界に見せつけたトラスト
 1982年から始まった世界耐久選手権(WEC)の日本ラウンドは88年まで毎年10月に冨士スピードウェイで開催されていた。その後は世界スポーツプロトタイプ選手権(WSPC)、世界スポーツカー選手権(WSC)と名を変え、舞台を鈴鹿サーキットやオートポリスに移して開催されている。この間、マツダに加えてトヨタと日産もワークスで参戦し、フランスのル・マン24時間制覇を最終目標とする激しい覇権争いが繰り広げられることとなった。この最終目標は1991年のマツダ787Bによって達成されている(本欄1991 MAZDA787Bの項参照)。
 
 しかし、スポーツプロトタイプによるモータースポーツ活動から撤退して久しく、レース用エンジンも持っていなかった国内メーカーは参戦開始当初、容易に世界の壁を突き崩せなかった。その前にポルシェ956/962という巨大な壁が立ちはだかっていたからだ。
 
 ポルシェ956が登場したのは1982年で、同年のル・マン24時間は3位までを独占するケタ違いの強さを見せて世界に衝撃を与えた(本欄1982 栄光のル・マン24時間 ポルシェ956。1、2、3位独占!の項参照)。翌83年、ポルシェ本社がポルシェ956の市販を開始するとヨースト、ブルン、クレマーなどヨーロッパの有力プライベートチームはもちろん、WECとレギュレーションが類似したアメリカのIMSAに参戦するチームも続々と購入している(IMSA仕様は962として販売された)。
 
 これを日本で最初に購入したのは千葉県に本拠地を置く自動車チューニング・パーツ製造販売のトラストだった。当時の車両購入価格は約6千万円、これはレース専用に開発されたスポーツカーとしてそれほど高いわけではない。その理由はまとまった台数がさばけたため、部品の型代や開発費を大幅に削減できたことによる。加えてル・マン24時間の際にワークスが専用ショップを開いてスペアパーツを販売していたこともあり、ランニング・コストも含めてチームが独自にレーシングカーを開発するよりはるかに安かった。
 
 しかも性能と安定性は際立っており、ポルシェ956で1983年の国内耐久レースに参戦したトラストはシリーズ全戦をポール・ツー・フィニッシュで飾っている。そのときのドライバーは1981年の冨士GCチャンピオン藤田直廣と、ワークス・ポルシェの一員としてハーレイ・ヘイウッド/アル・ホルバートと組んで1983年のル・マン24時間を制したバーン・シュパンだった。
 
 そのトラストが世界と比較してどの程度の力があるのか――これは1983年国内耐久シリーズが始まったとき、誰もが興味を持ったテーマだった。それまでマツダスピードや童夢、トムスなどがル・マン24時間に挑んではいたがクルマの性能と予算に隔たりが大きすぎたのに対し、ポルシェ956を得たトラストなら公平な条件で外国チームと比較できると考えられていたからだ。それを実際に比較できた最初の舞台こそ1983年WEC in JAPANだった。
 
 このレースにポルシェ956で参戦したヨーロッパ勢はまずワークス・ポルシェが2台。この2台はエンジンの圧縮比が8.5でターボも大型化しており、圧縮比が8.0にとどまっていた他のプライベート・ポルシェと比べて明らかにパワーで勝っていた。しかし、ワークスの2台を除くプライベート・ポルシェはいずれもエンジン、ターボ、サスペンションとも同一で、トラストのチーム力を推し量るには恰好の存在だった。このとき来日したプライベート・ポルシェはブルン、ヨースト、クレマーなどヨーロッパを代表する強豪で相手に不足はなかった。
 
 これらのヨーロッパ勢はリア・ウィングを高く設定したショートテール仕様のカウルを装着していたのに対し、トラストは直線が長い高速の冨士に合わせたリア・ウィングの低いロングテール仕様で乗り込んでいた。そのとき複数のメカニックが記者たちにこう語っている。
 
 「このコースを一番走り込んでいるのはオレ達だ。だからプライベート・ポルシェ勢の最上位は確保したい」
 
 だが、トラストは予選から絶好調だったわけではない。その予選で圧倒的に速かったのはやはりワークス・ポルシェで、前年に記録されたコースレコードを2秒以上も短縮する驚愕のタイムを叩きだしている。これはエンジンの圧縮比が高くハイ・パワーだっただけでなく、重量もプライベート・ポルシェより30〜50kgも軽かったからだ。これとは逆にもっとも重かったのがトラスト・ポルシェで、予選は5番手に甘んじている。
 
 そして迎えた決勝、ダンロップ・タイヤを装着した2台のワークエス・ポルシェは圧倒的に速く、わずか15周を走ったところで3番手以下をすべて周回遅れにしている。その後ろの順位争いは混沌としていたが、最初の給油とタイヤ交換を終えてからトラスト・ポルシェが着実に順位を上げていった。
 
 実は決勝のスタート時点で、トラスト・ポルシェは装着するタイヤのコンパウンドを読み違えるミスを犯していた。スタートは午前11時で、すぐに気温も路面温度も上がると読んでいたのに、思ったほど上がらなかったのだ。だが、最初のピット・ストップで適切なコンパウンドのタイヤに交換するとペースは一気に上がっていった。
 
 そしてポルシェ956中もっとも重いにもかかわらず混戦から抜け出してワークスに次ぐ3位の座を確保し、後続をジリジリ引き離し始めている。レース前にメカニックたちが語ったようにヨーロッパ勢よりも冨士でたくさん走り込んでいるぶんチューニング・レベルが高く、ダンロップ・タイヤとのマッチングも他陣営に優っていたからだ。
 
 その安定性はプライベート・ポルシェの中で群を抜いており、レースも中盤にさしかかったところで4番手以下をすべて周回遅れにしていた。そしてこの230周のレースが終わると思われていた226周目にトムス・トヨタが直線で派手にタイヤをバーストさせてクラッシュしたため、赤旗中断となってそのまま終了している。
 
 こうして1983年WEC in JAPANは呆気なく終わったが、日本のレース関係者が得たものは大きかった。トラストが同一条件で闘って、ブルン、ヨースト、クレマーというヨーロッパの三大耐久レース・チームを圧倒するチーム力があることを見せつけたからだ。そして日本のレース関係者はより本格的に世界へと目を向け始めている。条件さえ整えば世界を相手に互角の勝負が出来ることを誰もが認識するようになったのだ。


(黒井尚志)

2台のワークス・ポルシェにつぐ3位でレースを終えたトラスト・ポルシェ956。抜群の安定感でマイナー・トラブルは一切起こしていない。直線、コーナリングともヨーロッパ勢を上回っていた。最初のピット・ストップ以降、タイヤは抜群に安定していた。


これは予選のピット風景。ポルシェ956中、最重量ながら予選5番手を確保している。これはセッティング・レベルの高さに加えて、WEC用に開発したタイヤがズバリ決まったためだ。