1979年
全日本F2
 現在の国内トップ・フォーミュラはフォーミュラ・ニッポン(FN)だが、1986年までは排気量2000ccのエンジンを搭載したF2で競われていた。その全日本F2で複数の初優勝ドライバーが誕生した年が1度だけある。それは1979年で、初優勝したのはいずれもダンロップを装着した松本恵二と高橋健二だった。このうち松本はシーズン7戦3勝の好成績を残し星野一義を僅差でかわして同年の全日本F2チャンピオンに輝いた。

 松本は77年から全日本トップ・フォーミュラ(同年はF2000として開催)に参戦を開始、翌78年には表彰台に2度上がりランキング5位と実力の片鱗を見せるようになっていた。しかし、彼の乗るシェブロンB35/40はそれほど戦闘力のあるクルマだったわけではなく、初優勝には至らなかった。

 そして迎えた79年、松本は1年落ちながら熟成度が高い前年のワークス・スペア・マシンであるマーチ782/ダンロップでシーズンを迎えることになった。しかし、そこで彼は最悪のスタートを切ることになる。ケチのつきはじめは前日の予選で、雨のためタイムアタックのタイミングを逸し、9番手と出遅れてしまったのだ。しかも決勝では選択したタイヤが大外れで、2回ものタイヤ交換を余儀なくされ2周遅れの9位に沈んでいる。

 だが、第2戦の西日本で同じ轍を踏むことはなかった。開幕戦同様雨となった予選で松本は確実にクリアラップを刻み、見事にポール・ポジションを獲得していた。そして決勝でも長谷見昌弘、高橋国光との接戦を制し初優勝を飾っている。松本は第3戦の鈴鹿でもポール・ポジションを獲得し、前戦に引き続き好調を維持していた。しかし、決勝ではセッティングが決まらず、スタートの失敗も加わって3位にとどまっている。レースを制したのは松本同様ダンロップ・ユーザーの高橋健二で、絶妙のスタートで首位に立つとそのまま独走を続け、全日本トップ・フォーミュラの初勝利を飾っている。

 続く第4戦は富士スピードウェイで競われた。ここは超高速コースで、コーナリングは速いが直線に難がある最新のマーチ792は不利と見られていた。そのため星野はこのレースに限りノバ532を用意している。しかし、コースレコードでポール・ポジションを獲得したのはマーチ792/ダンロップの藤田直廣だった。続く2番手は前回の覇者・高橋健二で、松本は3位。決勝でも藤田は好調を維持し、これに松本が食らいついていく。松本は直線で差を詰めるが藤田はコーナーで引き離し、両車の間隔は膠着したままとなった。

 ところがレース中盤で藤田のマーチ792はホイールのボルトが折れて脱輪するという思いも寄らぬトラブルに見舞われている。これにより松本は首位に浮上したが、そのあとを追っていた高橋健二は脱輪したタイヤを避けようとダートに飛び出し、サスペンションを傷めてリタイヤしている。これでライバルのいなくなった松本は悠々の一人旅でシーズン2勝目をあげ、ポイントリーダーに躍り出た。

 しかし、ここから万事順風満帆とはいかないのが世の常で、第5戦は雨の予選でまたもタイムアタックが不発に終わり、松本はシーズン最悪の予選12位に沈んでいる。それでも決勝は前方の中嶋悟、高橋健二らの脱落もあって最終ラップでは3位にまで順位を上げていた。ところが、その最終ラップのヘアピンで和田孝夫に弾き飛ばされてスピンし5位に終わっている。

 そして第6戦の鈴鹿グレート20、このレースで松本は初めて最新のマーチ792を持ち込んでいる。しかし、他チームの792ほど熟成が進んでいないこともあって、予選は星野、中嶋、和田に次ぐ4位だった。だが、決勝では思いも寄らぬ展開が待っていた。まず、ポール・ポジションからスタートした星野が1周目でシフトリンケージのトラブルによりいきなり脱落したのだ。これで一人旅になるかと思われた中嶋は最終コーナーで脱輪し、18周目にリタイヤした。そしてレース序盤で松本をかわし2位に浮上していた長谷見も中嶋がリタイヤした直後にシフト・ロッドが折れて脱落している。

 荒れたレースを制したのは松本だった。彼はこのレースで練習走行から調子が出ず、決勝は無難に走ればいいと考えていたという。その無欲が生んだ勝利で、松本はポイントで2位の星野を19点差に引き離していた。残るはあと1戦で、この点差を見れば松本のタイトルは決定したかに思われるかもしれない。だが、問題はそう単純ではなかった。当時は有効ポイント制が採用されており、ポイントの少ない2戦を除外して計算していたからだ。

 しかもそのポイントはスポット参戦する外国人を除外し、日本人のドライバーだけに与えられていた。そのため第6戦終了時点で松本の有効ポイントは9位で3点にとどまった第1戦と5位で8点の第5戦を除く67点となる。これに対してランキング2位の星野は出走を回避した第2戦と10位でわずか1点にとどまった第4戦を除く有効ポイントは58点で、松本との差は8点差しかないことになる。

 当時は1位20、2位15、3位12、4位10、5位8、6位6、7位4、8位3、9位2、10位1の各ポイントが与えられる。したがって最終戦で星野が優勝して松本が4位以下なら、星野が逆転チャンピオンになることを意味していた。仮に星野が2位でも松本が6位以下ならやはり逆転する。さらに松本がリタイヤすれば星野は4位以上で逆転できることになる。こうした事情もあって最終戦は独特の緊張に包まれていた。

 その予選でポール・ポジションを取ったのは中嶋で、星野は2位につけていた。これに対してポイントリーダーの松本は調子が上がらず、シーズンで2番目に悪い11位で予選を終えていた。決勝では星野が快心のスタートを切って首位に躍り出るとそのまま中嶋をじわじわ引き離して優勝している。2位は中嶋、3位は当時すでにF1に乗っており、1982年のF1チャンピオンになったケケ・ロズベルグが、そして4位にはエイエ・エルグが入賞している。

 最終戦で松本は練習走行時からセッティングが決まらず調子が出なかったこともあって、無理せず堅実な走行を続けていた。そして終わってみれば全体の5位、日本人3位で貴重な12点を獲得している。これにより松本の有効ポイントは79で、同じく78ポイントにとどまった星野をわずか1ポイント差で抑えきってチャンピオンに輝いた。

 ではこの年、スポット参戦していた外国人ドライバーにも日本人ドライバー同様のポイントが与えられたらどうなったのか? じつはそれでも松本のチャンピオンは変わらなかった。星野はシーズン第1戦で2位だったが、そのレースで優勝したのがベッペ・ガビアーニだったために20ポイントが与えられ、ほかにも外国人ドライバーの入賞により繰り上げポイントを与えられたレースがあったからだ。

 結局、松本は運に恵まれてタイトルを獲得したわけではなかったということだ。むしろ、調子が上がらないレースで無理をせず確実に上位入賞を目指した堅実性と、行けるときに徹底して攻めた勝負勘がタイトルを呼び込んだといっていいのではないだろうか。この年、ダンロップは松本の3勝に高橋健二の1勝を加えて7戦4勝を記録、ドライバーの最終有効ポイントでも1位の松本のほか、3位高橋健二、4位高橋国光というリザルトを残した。



(黒井尚志)

富士スピードウェイで開催された第4戦で星野を抑えてヘアピンに侵入する松本のマーチ782。すぐ後ろが星野で左のゼッケン2番は3位の和田、その右は2位の高橋国光。星野はこのあとエンジンの不調で脱落している。ごらんのスポーツカー・ノーズはこの年までF2で一部採用され、翌年からウィング・ノーズに統一された。