1997年
世界の新井が全日本を制覇したとき――1997年全日本ラリー選手権
 国際自動車連盟(FIA)公認の四輪自動車競技で、日本人で唯一人年間チャンピオンになった男がいる。それがラリーの新井敏弘で、2005年と2007年の二度にわたってPCWEC(プロダクションカー世界ラリー選手権)で年間総合優勝を果たした。群馬県生まれの群馬県育ちで群馬大学工学部出身の彼が趣味とするのはサッカーとスキー、そしていうまでもなくクルマいじり。その新井が世界に飛び出すきっかけになったのが1997年の全日本ラリー選手権だった。

 新井は1966年に生まれ、学生時代からラリーを始めている。その能力は早くから注目されており、24歳になった90年にBC(東北・関東)地区チャンピオンとなった。全日本には翌91年からBクラスでスポット参戦して早々と初勝利を納め、フル参戦した92年には早くもチャンピオンになっている。そして93年から総合優勝を争うCクラスへの参戦を開始、94年にはランキング6位となり、シリーズ・チャンピオンの有力な候補者の一人にのし上がっていた。

 だが、翌95年に阪神淡路大震災が発生し、新井がタイヤ供給を受けていたダンロップも甚大な被害を受けて活動を休止しなければならなくなっている。ところが、新井は言う。

 「地震でダンロップも被災して競技用タイヤを作れなくなり開発が遅れるかなと思っていましたが、供給を受けていたラリータイヤ84Rが、とんでもなくレベルが高くて、他社が後追いで開発したラリータイヤと互角の勝負ができたのです。おかげで成績は悪くなかったですよ」

 その言葉通り新井は前年より上のランキング3位で95年シーズンを終えている。同じく96年も1勝を含むランキング3位で、いよいよ97年シーズンを迎えることになった。ダンロップが復活したのはまさにこの年だった。

 ラリー専用に開発された84Rを得た新井は97年、開幕と同時に驚異的な速さを発揮した。シリーズ全9戦のうち、前半の5戦だけで4勝もしてしまったのだ。そのためやっと真夏になったばかりの7月に開催される第6戦で早々とタイトルが決まるのではないかという信じがたい状況になっていた。

 だが好事魔多し。新井の乗るキャロッセ・インプレッサSTI/ダンロップは前日の雨で水溜まりができたSS2を通過したとき、エンジンに水が入ってバラつき出している。それでも我慢の走行を続けていたが、SS11で駆動系トラブルが発生しリタイヤした。続く第7戦で新井は前半のSS4でフロントサスペンションを強打し、苦しい戦いを余儀なくされていた。それでもしぶとく上位に食らいつき、もはやチャンピオンは決定と思われていた。ところが、最終SSで無念のコースアウトを喫し2戦連続のリタイヤとなった。新井は言う。

 「この時点ではまだ十分精神的に余裕はありました。前半戦の貯金がありましたから。それに前半戦が幸運続きだったこともあって、2戦連続リタイヤしても『こんなこともあるさ』くらいにしか思っていませんでした」

 この第7戦を終えた時点で新井の前に立ち塞がったのが同じくダンロップ・ユーザーのベテラン、綾部美津雄だった。彼は新井がリタイヤした第6戦と第7戦を連覇し、ランキング2位に上り詰めていた。だが、つぎの第8戦のツール・ド・ミカサで綾部の勢いは止まっている。彼のGABアヤベ・インプレッサSTI/ダンロップはSS7の途中からミッショントラブルを抱え、3速しか使えなくなっていたのだ。それでも残りのSSをトップから2〜3秒遅れにまとめたのはさすがだったが、結果は3位に終わりチャンピオンの夢は潰えている。一方の新井は開始早々痛恨のエンジン・トラブルでまたしてもリタイヤ!

 「2戦連続リタイヤは気にしていませんでしたが、3戦連続となるとさすがに焦りました。それにしても調子のいいときは周りの自滅で勝ってしまうこともあるのに、何かがちょっとズレると、考えられないようなこと(第6戦のエンジンに水)や普段やらないつまらないミス(第7戦の最終SSコースアウト)まで起きるものです。それが3回連続ですから、このときは本当に尻に火がついたように思ったものです」(新井)

 こうしてタイトルの行方は結局、最終戦にまでもつれ込んでいる。その有資格者は新井と第2戦の覇者・西尾雄次郎。ただし西尾が逆転チャンピオンになるには自身が優勝してなおかつ新井がリタイヤしなければならない。したがって新井が圧倒的に有利であることは間違いなく、競技開始前に、「完走狙いで抑えて走りますよ。ただ、Cクラスのトップ争いは僅差ですから、どこまで緩めたらいいのか判断が難しい」

 と語っている。実際、彼の言うとおり第8戦では1位から9位まで35秒差しかなく、あまりペースを落とすと完走してもノーポイントに終わる可能性は確かにあったのだ。では実際に新井はどこまで落としたのか。のちに彼はこう語っている。

 「1キロにつきトップから0.3秒遅れを想定していました。これはミスなく堅実に走ってなおかつ4位以内を確保できそうなペースでした」

 これはサーキットレースに換算するとほぼ1周0.5秒遅れとくらい考えていいだろう。優勝を目指すドライバーにとってこれは精神的にもかなり楽で余裕があり、クルマにもストレスがかかりにくく、しかも緊張感を失わないペースだった。

 そして競技が始まると新井はタイトル争いする西尾の後塵を拝しても焦ることなくこのペースを守り続けた。一方の西尾は一向にペースが上がらず、SS3以降はズルズルと順位を落としていった。この間、トップに躍り出たのは綾部だった。新井は途中でその綾部とのタイム差を縮めているが終盤にはペースを緩め、トップと7秒差で余裕を持って2位で競技を終え年間タイトルを手にしている。また、最終戦を制した綾部はポイントで西尾を凌いで2位になり、ダンロップはラリーに本格復帰した初年度にランキング1位、2位を独占する快挙を成し遂げた。

 チャンピオンが決定したとき新井はこう言った。

 「これでやっとスッキリして次のことが考えられます」

 次のこととは世界を目指すことで、翌年、新井は世界へと羽ばたいて行った。



(黒井尚志)

1997年全日本ラリー選手権最終戦 ハイランドマスターズを疾走する新井のキャロッセ・インプレッサSTI/ダンロップ。壊さぬよう堅実に走って2位に入賞しチャンピオンに輝いた。


第8戦のツール・ド・ミカサを走る新井。エンジン・トラブルでリタイヤに終わっており、このときはさすがに新井も「3戦連続リタイヤで尻に火がついた」と語っている。