1982年
栄光のル・マン24時間 ポルシェ956。1、2、3位独占!
 1923年から続くル・マン24時間の歴史で、同一チームのクルマがゼッケン番号通り1、2、3位を占めたことがたった一度だけある。それは1982年のことで、偉業を達成したのはワークス・ポルシェ、クルマはポルシェ956だった。この快挙には伏線がある。じつはこの年、国際自動車連盟(FIA)はそれまで9クラスに及んだそれまでのカテゴリーをA、B、C、D、Eの5クラスに簡略化してすべてのレースを開催するという新たなレギュレーションを導入した。

 それぞれのカテゴリーはA=連続する12ヶ月で5千台以上生産された量産車、B=連続する12ヶ月で200台以上生産された少量生産車、C=1台以上生産された2座席の耐久レース専用スポーツカー、D=フォーミュラ・カー、E=フォーミュラ・リブレ(規格外・当時の富士GCマシンなど)と定義づけられていた。そしてこの新レギュレーションに合わせてツーリングカー・レース(グループA)、国際ラリー(グループB、87年からグループAに移行)、耐久レース(グループC)が開催されるようになっている。

 ポルシェ956はこれに合わせて開発され、正常進化型の962を含め、1991年に国際スポーツカーレースが自然吸気3.5リッター・エンジン搭載車に統一されるまで耐久レースの中心的マシンとして君臨した名車だった。しかし、レギュレーション変更年の常として、名車ポルシェ956もデビュー当初から順風満帆だったわけではない。

 グループCカーが同年から始まった世界耐久選手権に参戦したのは1982年4月18日に開催されたシリーズ第1戦のモンツァ1000kmだった。しかし、10台参戦したグループCカーはいずれも熟成不足で次々にリタイヤし、無傷で走り切ったのは優勝したロンドーM382フォードだけだった。

 ポルシェ956は5月16日にシルバーストーンで開催された第2戦に初登場している。しかし、このレースでポルシェ956は思わぬ欠点を露呈することになった。じつはグループCカーは搭載するエンジンに制限はなかったが、厳しい燃費規制が課されていた。そのため後半にペースを落とさなければガス欠リタイヤになる恐れがあったのだ。これに対して混走が認められていた旧グループ6(オープン・コクピットの二座席レーシングカー)のランチアは燃費でポルシェ956にはるかに勝り、余裕の勝利を飾っている。この問題を解決すべく、ポルシェ956はシリーズ第3戦のニュルブルクリンクを欠場し、来るべきル・マン24時間に照準を合わせて熟成を進めることになった。

 ル・マン24時間が開催されるサルテ・サーキットは1周約13.5km(年によって長さが異なる)で、そのうち3分の2を一般公道が占める。その中にユーノディエールと呼ばれた6kmに及ぶ直線が存在していた(現在は途中にシケインが2カ所設置されている)。こうしたコースの特徴から直線速度を稼ぐため、空気抵抗を減らし、エンジンは最高出力を稼ぐ仕様にするのが一般的だった。

 ところが、ポルシェ956は空冷水平対向6気筒2.65リッター・エンジンを搭載していたが、最高出力はわずか630馬力に抑えられていた。ただしトルクはかなり太く、常用する全回転域で70kg-mを超えていたと言われている。これはF1のようにアクセルを踏み続ければ空気抵抗の限界までジワジワと回転が伸びてどこかで最高出力値に達するのではなく、回転は伸びないが低回転域でいきなり猛烈な回転力で爆発的に加速するエンジンである。

 ポルシェがエンジンをこのようにチューニングした理由はトルク重視型のほうがドライバビリティに優れてドライバーのミスが少なく、回転が低いぶんエンジンのトラブルを防げるという理由だったと推測されている。いずれにせよこのようなチューニングはのちに他社も採用しており、日産は90年以降の国内レースでは軽く80kg-mを超える驚異的なトルクを誇りながら700馬力にも満たないエンジンで決勝に臨んでいる。

 しかし、タイヤにとっては高回転型よりはトルク重視型エンジンのほうが難しく、トレッドの剥離やバーストのリスクが高まる。しかもル・マンの公道セクションはレースの1時間前まで一般車両が通行しているためガラスの破片や釘などが多く、ただでさえパンクとバーストが多いことで知られていた。その難コースにワークス・ポルシェが選択したタイヤがダンロップだった。そしてニュルブルクリンク1000kmを欠場してエンジン、車両、タイヤの熟成に費やし、勇躍ル・マンへと乗り込んできた。

 その本番ル・マン24時間で、F1でも通算8勝の成績を残したジャッキー・イクスとデレック・ベル組のポルシェ956が幸先よく予選でポール・ポジションを獲得している。同年の耐久レース・シリーズ前半を華やかに彩っていたグループ6のランチアも予選は俊足ぶりを発揮して観衆を沸かせていた。しかし、わずか1.4リッター・ターボ搭載のランチアが総合優勝するとは思えず、決勝はポルシェ956とロンドーM382を筆頭とするフォード・エンジン搭載車の一騎打ちになると見られていた。

 そして迎えた決勝、大方の予想は正しかった。予選で快調だったランチアはいつもの1000kmレースの4倍以上を走らなければならないル・マン24時間ではクルマがもたずリタイヤに終わっている。フォード勢も序盤は気を吐き、ロンドーM382は決勝レースでの最速タイムを記録した。しかし、時間の経過と共にトラブルが発生しほぼ全滅状態に終わっている。

 これに対してダンロップ・タイヤを装着したポルシェ956は順調に周回を重ね、2日目に入るころにはレースの帰趨をほぼ決定づけていた。なかでもゼッケン1番のイクス/ベル組はマイナー・トラブルさえ起こさず首位を疾走し続ける。これに唯一肉薄していたのが同じくポルシェ956に乗るゼッケン2番のヨッヘン・マス/バーン・シュパン組で、3位以下は大きく引き離されていた。

 3位はゼッケン3番ハーレイ・ヘイウッド/アル・ホルバート/ユルゲン・バルト組で、2日目の午後になるとポルシェ956はゼッケン番号通りの順位になることがほぼ確定した。そして6月20日午後3時45分、24時間レースも残り15分となったところでワークス・ポルシェはゼッケン番号通り1、2、3番の順で隊列を組み、そのままチェッカー・フラッグを受けている。

 優勝したのはイクス/ベル組で、イクスにとってはル・マン通算6勝目、ベルにとっては通算3勝目だった。なお、イクスはその後マツダの顧問に就任し、91年のマツダ787Bによるル・マン総合優勝に多大な貢献をした。また、2位に入賞したバーン・シュパンは翌年、藤田直廣と組んでトラストレーシングからポルシェ956/ダンロップで全日本耐久選手権に参戦し4戦全勝の成績を残し、1990年まで走り続けた。

1982年ル・マン24時間で鮮やかな優勝を飾ったポルシェ956はその後エンジンを空水冷2.8リッター・ターボ、水冷3リッター・ターボ、水冷3.2リッター・ターボへと拡大、ボディも962へと正常進化し、前年の1981年から1987年まで総合優勝7連覇という不敗伝説をつくった。その後もレギュレーション変更前年の1991年まで世界の第一線で走り続けたポルシェの栄光は、今でも色褪せず多くのファンに語り継がれている。



(黒井尚志)

優勝したジャッキー・イクス/デレック・ベル組のポルシェ956。周回数359周、走行距離4899.086kmで24時間の平均速度は204.128km/hだった。当時は多くのチームが二人のドライバーで24時間を走りきっていた。



これはレース前のピット風景。この時点ではポルシェ956がゼッケン番号どおり1位、2位、3位を独占するなどと誰も予想していなかったが、本番では圧倒的な信頼性でライバルたちを寄せ付けなかった。