1992年
全日本ツーリングカー選手権で、長谷見選手が連覇達成
 国内モータースポーツでドライバーに全日本選手権が与えられたのは1966年で、記念すべき初代チャンピオンはスポーツカーが酒井正、ツーリングカーは砂子義一だった。その後、両カテゴリーは中断と復活を繰り返しながら、1990年代前半までもっとも集客力のあるレースとして存続し続けた。

 長谷見昌弘が全日本ツーリングカー選手権で初めてチャンピオンになったのは1971年で、初代スカイラインGT−Rで栄光を掴んでいる。その後、彼は活動の中心をスポーツカーとフォーミュラに移し、全日本FJ(現在のF3に相当)、全日本F2(現在のフォーミュラ・ニッポンに相当)、鈴鹿F2、全日本FP、富士GCと、全日本および地方のメイン・カテゴリーに掲げられた全タイトルを獲得している。その長谷見が全日本ツーリングカー選手権(JTC)に帰ってきたのは1986年だった。長谷見は1987年と1988年を欠場していたが、スカイラインGTS−Rを得た1989年にはアンデルス・オロフソンと組んで復帰し、ダンロップ・タイヤを装着して1971年に続く2度目の全日本ツーリングカー・チャンピオンに輝いている。

 伝説の名車であるR32スカイラインGT−Rがレースにデビューしたのは翌1990年だった。その2年目になる1991年に長谷見はオロフソンとのコンビでダンロップ・タイヤを装着し、星野一義/鈴木利男組との激烈な争いを展開しながら3度目の全日本ツーリングカー・チャンピオンに輝いている。

 そして迎えた1992年、長谷見と1989年以来コンビを組んでいたオロフソンは木下隆行と新たなチームを立ち上げている。そのため長谷見が新たなパートナーとして選んだのは福山英朗だった。総合優勝を争うクラス1第一部門(排気量2501cc以上)に参戦するスカイラインGT−Rは7台で、多くのタイヤメーカーが揃っていた。したがってこの年はまったく同じクルマで、タイヤによる争いが繰り広げられたことになる。それでもタイトルは前記2チームに星野/影山正彦組を加えた3台による争いになると思われていた。だが、シーズンが開幕すると意外な強敵が出現している。それはトーヨートランピオを装着するトム・クリステンセン/清水和夫組だった。

 1992年シーズンは土砂降りのTIサーキット(現在の岡山国際サーキット)で開幕した。その開幕戦を制したのは長谷見/福山組。このレースは空模様と同じく波乱の展開になり、長谷見/福山組も豪雨でコースアウトし、一時は8位まで落ちていた。しかし、その後ジワジワと順位を上げた末の逆転勝利だった。しかし、第2戦はブレーキランプ交換という予期せぬトラブルで4位に終わっている。さらに第4戦は5位に沈んでポイント・ランキングは3位に後退した。

 この時点でランキング1位は第2戦を制したオロフソン/木下組、2位は2、2、3位と堅実な走りを見せたクリステンセン/清水組だった。クリステンセン/清水組は第5戦を制し、長谷見/福山組をさらに突き放している。しかし、長谷見/福山組も2位に入り、4位に終わったオロフソン/木下組と同ポイントの2位に浮上していた。

 そして折り返し点となった第5戦がシーズンの行方を大きく左右するターニングポイントになった。場所は猛暑のMINE(のちの西日本サーキット)で、次々に脱落するライバルを尻目に圧勝したのが長谷見/福山組だった。この時点で長谷見/福山組はノーポイントに終わったオロフソン/木下組を抑え、首位のクリステンセン/清水組にわずか2ポイント差に迫っている。続く第6戦は長谷見/福山組4位に対しクリステンセン/清水組は5位でついに両チームのポイントが並ぶことになった。

 さらに第7戦で長谷見・福山組は3位に入り、ついにポイントリーダーになっている。だが、この時点で2位のクリステンセン/清水組との差はわずか4ポイント、3位のオロフソン/木下組とも15ポイント差で、決着は最終戦に持ち込まれることになった。当時の全日本ツーリングカー選手権は1位20、2位15、3位12、4位10、5位8、6位6、7位5の各ポイントが与えられており、最終戦で20ポイント以内の差なら逆転は可能だった。

 しかも、長谷見/福山組はある弱点を抱えていた。それというのもクルマのセッティングがテクニカル/コース向きになっていたことだ。しかし、最終戦は超高速の富士スピードウェイで、これまでと根本的に異なっているため、長谷見・福山組はセッティングを大きく変更しているが決勝仕様は最後まで決まらなかった。

 そのため長谷見・福山組は決勝が始まると無謀な勝負を避けて、堅実な走りに徹している。これはレース前に長谷見が「やっぱりチャンピオンを取りたい」と語っていた通りの走りだった。 

 レースは一発逆転を狙うオロフソン/木下組の逃げで始まった。しかし、長谷見/福山組はそれに惑わされることなく堅実な走りに徹し、続々と自滅するライバルを尻目に手堅く2位に入賞している。そして3位に終わったクリステンセン・清水組に7ポイントの差をつけて同年のチャンピオンに輝いた。

 こうして「タイヤ戦争」といわれた1992年の全日本ツーリングカー選手権は前年に続きダンロップと長谷見昌弘の連覇で幕を閉じている。それは長谷見にとって通算4度目の全日本ツーリングカー選手権で、他のカテゴリーを含めるとじつに11回目(富士GC、鈴鹿F2、シルエット・フォーミュラはいずれも地方タイトル)の全日本タイトルだった。



(黒井尚志)

タイトルを決めた最終戦の富士スピードウェイを疾走する長谷見・福山組のユニシアジェックス・スカイラインGT−R。



表彰台の風景。左が長谷見、その右が福山。長谷見にとって通算11回目の、そして最後の全日本タイトルとなった。