1982年
日本初のグループCカー
 1980年代半ばから1990年代初頭にかけて国内でもっとも人気のあるカテゴリーは全日本スポーツプロトタイプ選手権(JSPC)だった。これは排気量無制限ながらリッター約2kmという燃料規制が課せられたグループCカーという専用スポーツカーで争われていた。グループCはFIAが1982年から導入したカテゴリーで、採用初年度は経過措置として旧カテゴリーとの混走が認められていた。

 そのグループCカーによる日本初のレースが開催されたのはまさに1982年で、同年のル・マン24時間を制したポルシェ956を筆頭にランチアLC1(グループCではなく、旧カテゴリーのグループ5-75だった)、ロンドーM379などが参戦している。これが第1回WEC(World Endurance Championship)で、国内勢も34台が参戦していた。しかし、そのほとんどは耐久レース専用のスポーツカーではなく、市販改造車にすぎなかった。

 それでも新カテゴリーに対応するクルマを独自に製作し、ル・マン24時間へのステップ・アップを目指すチームが存在していた。それがトムスと童夢で、童夢設計・トムス製作によるトヨタ製直列4気筒2000ccの2T-GT改ターボ・エンジンを搭載したトムス童夢セリカCで第1回WECに参戦している。これこそ日本初のグループCカーで、装着されていたタイヤはダンロップだった。当時、クルマの製作に携わったトムス関係者はその理由をこう語っている。

「ダンロップを採用した理由は単純ですよ。耐久性能が優れているうえに安定していたからです。WECでもかなりいいタイヤを提供してくれましたよ」

 このクルマには「セリカ」の名がついているが、当時のトヨタを代表するスポーティーカーだった市販車のセリカとはまったく関連性がなく、モノコックからサスペンションに至るまですべて独自に設計していた。

 しかし、まだモータースポーツが社会的認知を受ける前の時代ということもあってスポンサー料は少なく、設計した童夢も製作したトムスも資金を持ち出してレースに臨んでいた。それでも会社経営に過度の負担をかけることなく自社開発車でWECに参戦できた理由はカー用品チェーン最大手のオートバックスがスポンサーについたことによる。当時、これほどの大企業がレースのスポンサーにつくのは希なことだった。

 日本のグループCカーであるトムス童夢セリカCは1982年8月に完成し、同年8月に開催された鈴鹿1000kmにデビューしている。しかし、テスト期間がほとんどないぶっつけ本番となった初レースはスタートからわずか半周したところでサスペンションが折れてリタイヤに終わっていた。目標だったWECまでのテスト期間は1ヶ月半しか残されていなかった。

 しかし、この1ヶ月半でトムス童夢セリカCは長足の進歩を遂げていた。もちろんポルシェやランチアの敵とはなり得なかったが、8月にシェークダウンしたばかりのクルマが、それからわずか2ヶ月後のWEC決勝で国産勢最上位を争うレースを展開したのだ。

 だが、レース中盤にさしかかるころ、トムス童夢セリカCにトラブルが発生している。3速ギアが使えなくなったのだ。そのためチームは国産勢最上位争いを諦め、終盤はペースを落として完走狙いに切り替えている。そして致命的なトラブルを負うことなく6時間を走りきって完走し5位入賞を果たしたのであった。それはトムスの舘信秀社長(当時・現会長)の引退レースでもあった。レース後、舘は満面の笑みを浮かべて言った。

「みんな騙してやった。まさかウチのクルマが完走できるなんて誰も考えていなかったからね」

 結果は総合5位、国内勢3位。しかし、それは表面上の順位以上の価値ある完走だった。わずかばかりの情熱さえあれば、日本のチームでも国際レースで完走できる市販車の改造版ではない純粋なレーシングカーをゼロから開発できる力があることを証明したからだ。そしてこの日を境にメーカーも世界の強豪と戦えるクルマの開発に向かって動き始めることになった。

 同時に誤解だらけだった自動車レースが華やかなエンタテインメントとして社会から認められるようになり、空前の人気を呼ぶようになっている。そのきっかけを作ったクルマこそトムス童夢セリカCだった。そしてエンジンを提供したトヨタはこれを機会に国内モータースポーツに力を注ぎ、やがてトムスを通してレースに本格復帰するようになっている。

 一方、設計を担当した童夢はその後も意欲的な作品を毎年のように投入した。そのカテゴリーはグループCからF3000、GT、そして最新のル・マン24時間仕様車と多岐に渡っており、一貫してダンロップとの協力体制を維持して今日に至っている。



(黒井尚志)

第1回WECで富士スピードウェイを疾走するトムス童夢セリカ。国内勢唯一エンジンをミッドシップに搭載したアルミモノコック仕様の耐久レース専用スポーツカーとして参戦した。
1982年はレギュレーション変更の年で、経過措置としてこのような市販改造車の参戦も認められていた。参加車中最速を誇ったダンロップ・タイヤ装着のポルシェ956と直線の速度差は時速100km近くに達していた。