2009年
ル・マンの表彰台
 2009年3月9日、マツダスピードの監督だった大橋孝(たか)至(よし)氏が天国に召された。彼は1991年にダンロップ・タイヤを装着したマツダ787Bが日本車として初めてル・マン24時間を制覇したときの監督で、ダンロップの技術者とも長年にわたって深く交流していた盟友でもあった。

 大橋氏が初めてル・マンに挑んだのは1974年、前年に日本人として初めてル・マンに参戦したシグマ・オートモーティブ(現サードレーシング)代表の加藤眞氏から誘われたことによる。加藤氏は元トヨタの技術者だが、1973年のル・マンにはロータリー・エンジン搭載車で挑んでいた。そのため翌1974年はロータリーを熟知している大橋氏に監督を依頼しようと誘ったのだ。そのときの様子を大橋氏はこう語っている。
「眞ちゃん(加藤氏)とはそれまでお互いに顔と名前が一致する程度の関係で、話をしたことはありませんでした。それが1973年の晩秋に突然電話がきましてね。『来年のル・マンについて相談したいことがあるので、ぜひお会いしたい』と言うんですよ。話し合ったのは愛知県豊田市にある高月院という県内随一の名刹でした。そこで眞ちゃんは『われわれの挑戦を世間は無謀と言うでしょう。しかし、日本車がル・マンを制する日が必ずやってきます。そのとき、われわれの無謀な挑戦が歴史として残るのです』と語るんですよ。あれは寒い夜で、『眞ちゃん、どうしてもっと暖かいところでコーヒーでも飲みながら話してくれないんだろう』と思いながら聞いていたものです。それでも話がすごく情熱的で、その日のうちに申し入れを快諾しました」

 そして1974年に加藤氏とのジョイントでル・マンに参戦するのだが、そのときコースに立った大橋氏は漠然と「いつかここで勝てるのではないか」と思ったという。しかし、同年のル・マンは最後まで走り続けたものの規定周回数不足により完走とは認められていない。そしてオイルショックという厳しい社会情勢の中で、大橋氏はその後しばらく挑戦を断念しなければならなかった。

 彼が再びル・マンに挑んだのは1979年だが、このときは屈辱の予選落ちを喫している。そのため翌1980年は参戦を回避し、体制を整え直して1981年から連続参戦を開始している。だが、当初の体制はあくまでもマツダオート東京のディーラーチームにすぎず、マツダ本社のワークスだったわけではない。クルマも他のチームがほとんどレース専用スポーツ・プロトタイプで挑んでいたのに対しマツダはRX-7の改造車でしかなく、エンジンも市販用の13Bロータリーをレース用にチューニングしただけだった。

 これがほんとうの意味で全社的取り組みになったのは1990年で翌1991年にル・マンを制するのだが、これには裏話がある。このとき搭載した4ローターのR26Bは栗尾憲之氏らが開発したレース専用エンジンで、決勝仕様で最高出力660~670馬力、最大トルク60キロ以上あり、850kgの車体に搭載してリッター2km以上と、当時のF1エンジンを凌ぐ低燃費高性能自然吸気式エンジンだった。しかし、ターボを搭載していないため最高出力はライバルのベンツ、ジャガー、ポルシェに遠く及ばなかった。それどころか1991年ル・マンはロータリー・エンジンで参戦できないかもしれないという瀬戸際に追い詰められていた。

 この状況を打破したのが大橋氏の交渉術だった。じつは1990年9月にパリの超高級ホテルであるクリヨンのレストラン、レザンバサドールでジャガー、ベンツ、ポルシェ、プジョー、トヨタ、日産、マツダの各モータースポーツ責任者と当時FIA副会長だったバーニー・エクレストンを加えた秘密会議が開かれている。目的は1991年ル・マンのレギュレーションを決めるためだった。

 その秘密会議に先立ち、大橋氏はイギリスで下工作をしている。それはダンロップ誕生100周年を記念した1988年ル・マンで、まさにダンロップ・タイヤを装着してレースを制したTWRジャガーの監督であるトム・ウォーキンショーにロータリー・エンジン搭載車の参戦と100kgの重量ハンデの約束を取り付けたことだ。当時のトムはヨーロッパのレース界に厳然とした影響力を持つ大物で、大橋氏とはチームを結成したこともある親しい友人だった。

 こうしてマツダはポルシェらの最低位重量950kgに対し850kgという軽量マシンでル・マンに臨むことができることになった。これが1991年のル・マンで劇的な逆転劇を演出した要素のひとつになったことは間違いない。ただ、このときのマツダは車両もタイヤも完成度が際だっており、ドライバーも気力が充実して最高のパフォーマンスを発揮したのも事実だった。

 それでも100kgの重量差がなければ、24時間ノン・トラブルで走り2位に食い込んだジャガーとはもっと際どい勝負になっていたのではないだろうか。その大橋氏が1979年のマツダオート東京による単独参戦開始から1991年の総合優勝に至るまで、一貫して使用していたのがダンロップ・タイヤだった。

 最後に大橋氏の人物像を物語るエピソードを紹介しておこう。彼は日本のレース界で随一のダンディな紳士で、わずか280馬力しかない市販の13Bロータリー・エンジンで戦っていた時代、マツダ本社のエンジン担当だった前出の栗尾氏に「もうちょっとパワーのあるエンジンがほしいね」と、いつも静かに語っていた。当時の彼はスポンサーを獲得するためテレビにも出演していたがマスコミへの露出が好きだったわけではなく、何よりも写真が嫌いだった。そのためマツダスピードのプレスリリースにさえも写真掲載を認めなかったし、 「至近距離で正面から私の顔写真を撮ったカメラマンはほとんどいないと思いますよ。いつも微妙に避けていましたから」
と語っていたものだ。そのためマツダ本社にも、大橋氏の顔写真はほとんど残されていない。享年67、彼は今も天国でダンディにレースの指揮をとっていることだろう。



(黒井尚志)

1991年のル・マンで総合優勝したときの表彰台。上段が優勝ドライバーで右がベルトラーン・ガショー、左はフォルカー・バイドラー。もうひとりのジョニー・ハーバーとは脱水症状で医務室にいたため表彰台には上がっていない。下段右から4人目のサングラスをかけ、カップを掲げているのが大橋氏。じつは、同年のル・マンで大橋氏が写っている写真はこれ1枚しかない。(写真提供:マツダ)



これは1984年ル・マンのピット風景で、いちばん右が大橋氏。カメラを向けるとこのようにさりげなくフレームから外れるのが常で、本人もそれを自慢気に語っていた。



1984年ル・マンで車検場に運び込まれたマツダ717。このクルマは排気量無制限で最低重量850kgのグループCに対し、より厳しい燃費制限を課せられた最低重量750kgのグループCジュニアに分類されていた。このクラスは小排気量エンジンしか持たないマツダのために作られたクラスで、大橋氏が主催者の西部自動車クラブ(ACO)と交渉してレギュレーション化している。