1979年
シェーカー・メッタ、不滅のサファリ・ラリー4連覇
1953年から2002年まで、アフリカのケニアで開催されていたサファリ・ラリーは熱帯サバンナの大草原を最高時速200km以上で疾走する超高速ラリーだった。これほど高速で繰り広げられるラリーは他になく、別名「クレイジー・ラリー」とも「カー・ブレイカー・ラリー」とも呼ばれていた。この常軌を逸したラリーで、ダンロップ・タイヤを装着した日産車で4連覇を含む通算5勝の成績を残した偉大なドライバーがいる。
その名はシェーカー・メッタ。彼はウガンダ生まれのインド人でケニアに在住しており、ビジネスでも成功を収めた人望の厚い男だった。彼が最初にサファリを制したのは1973年で、初代ニスモ社長を務めた難波靖治監督の下、ダットサン240Z(日産フェアレディZ)で栄光を手にし、その後の4連覇でサバンナの王者として人々の記憶に残ることになった。
4連覇の始まりは1979年だった。この年のサファリで彼の前に立ちふさがったライバルはベンツで、軽飛行機およびヘリコプター各2機、サービスカー52台という空前のスケールで挑んでいた。そのベンツは日産バイオレットPA10の190馬力に対して390馬力の450SLCを投入、圧倒的なパワーでラリーをリードしたが、最終日のゴール目前でトラブルにより自滅、終始好位置に付けていたメッタが逆転勝利を収めている。
翌1980年、雪辱に燃えるベンツはさらに陣容を整え、軽飛行機とヘリコプター各2機にサービスカー62台、本社のエンジニア37人を含む総勢200名という大部隊を投入した。対する日産は本社から派遣された技術者がわずか7人にすぎなかった。3日間5432kmに及ぶ競技のうち、最終日も残すところあと4分の1ほどの地点でライバルのベンツが壊滅的トラブルを起こし、日産/ダンロップのメッタが劇的な勝利を収めている。
さらに1981年はともに日産/ダンロップを操るメッタとフィンランドのラウノ・アルトーネンの一騎打ちとなった。この年は最終日に意外な結末が待っていた。一部のセクションで、先にスタートした数台のクルマが通過した後に猛烈なスコールが襲ってきたのだ。そのため後続車が大幅にタイムをロスすることになる。そしてスコールに襲われる前に通過したアルトーネンが見かけ上の1位となり、スコール後に通過したメッタが2位となっている。だが、偶発的な天候の変化で順位が変わるのは公平ではない。そのため順位は二転三転し、最終的に問題のセクションはキャンセルされて優勝はメッタ、アルトーネンは2位の裁定が下されている。
そして迎えた1982年、4連覇のかかるメッタは引き続き日産バイオレット/ダンロップで挑むことになった。一方、前年苦杯を喫したアルトーネンは心機一転、オペルで挑んでいる。それは彼の執念でもあった。彼は1960年代半ばに彗星のごとくラリー界に登場しており、フィンランド人ドライバーがラリー界で隆盛を極めるきっかけを作った男でもあった。だが、彼は世界の主なラリーをことごとく制覇しながら、サファリだけは総合優勝を果たしていなかったのだ。
競技はアルトーネンのリードで始まった。彼はスコールで泥んこになったマッドホールが続く難コースを誰よりも速く駆け抜けた。そして乾燥した高速セクションでフロント・ダンパーを失い一度はメッタに逆転を許すが、そのメッタがリア・アクスルを傷めてチェースカー(競技車両と同一仕様のサポートカー)の部品と交換している間に再び首位を奪い返していた。こうしてアルトーネンは首位で第1レグを終えてナイロビに戻ってきた。
第2レグに入っても先にトラブルを起こしたのはメッタのほうだった。彼の日産バイオレットは800kmごとにリア・アクスルを交換しなければならず、アルトーネンとの差がジワジワと開き始めていた。だが、第2レグも後半に入ると同様のトラブルがアルトーネンのオペルを襲い、またしても順位が入れ替わることになった。
そして最終第3レグ。1位はメッタで、アルトーネンは3位からスタートしている。両者の差は41分、これはヨーロッパのスピード・ラリーと異なり、サファリなら1回のトラブルで十分逆転可能な差だった。そしてアルトーネンはまだ勝負を捨てていなかった。彼は猛烈なアタックを開始して差を縮めていく。だが、ゴールまで残りわずか400kmの地点でアルトーネンの操るオペル・アスコナが、ついにエンジンの息の根を止めている。
アルトーネンが消えたあと、唯一メッタに肉薄したのはオペルのワルター・ロールだった。しかし、メッタはそこでペースを上げるほど愚かな男ではなかった。彼は後続との差を確認しながらペースを落とし、トラブルを回避してゴールのナイロビに戻ってきた。
メッタがサファリで4連覇を含む通算5勝という空前絶後の記録を残した理由は誰よりもクルマを壊さなかったことだ。それこそ別名「カー・ブレイカー・ラリー」と呼ばれたサファリで致命的なトラブルを回避して栄光を掴んだ最大の理由だった。メッタはその後も競技生活を続け、引退後は多くの関係者に推されて世界自動車連盟(FIA)のラリー委員長に就任したが、2006年4月にロンドンの入院先で他界している。
敗れたアルトーネンはサファリで走るにはあまりにも速すぎた。母国のフィンランド語に加えて英、仏、独、伊、さらにケニアのスワヒリ語にも堪能なこのインテリは、50歳をすぎてもなおサファリに挑み続けた。しかし、ついに夢を果たすことはなく、引退後はドライビング・スクールの校長として後進の指導にあたることになった。
ちなみにダンロップはサファリ・ラリーにすべてのタイヤを完成状態で日本から送ったわけではなかった。超高速ドライ・セクションと泥沼のマッドホール、さらに川と化したルート等、条件が目まぐるしく変化するこの過酷なラリーは天候と路面が刻々と変化するため、現地で状況に合わせて即座に対応しなければならなかったからだ。そのため日本から派遣された腕利きの職人がその日・そのコースのコンディションに合わせ、手作業で最適の溝をカットし続けていた。これが勝負の行方に大きな意味を持っていたのは言うまでもない。そしてこのタイヤはワークス・チームだけでなく、多くのプライベート・チームにも供給されていた。



(黒井尚志)
※写真はいずれも1982年



乾燥したサバンナを疾走する日産バイオレット。最高速度は優に200km/hを超え、体感速度はサーキットレースの350km/hに相当する。
後方に移っているのは地元のギャラリー。



サファリ・ラリー名物の山岳セクション。コース幅が狭くところどころで岩が露出しているためタイヤとサスペンションを傷めやすく、リタイヤが続出するもっとも厳しいセクションだ。



首位でゴールのナイロビに到着した日産バイオレット。クルマの左側で主催者の握手に応じているのが4連覇を達したサバンナの王者、シェーカー・メッタ。