1994年
童夢、全日本F3000参戦
 京都の童夢がダンロップと組んで全日本F3000(現在のフォーミュラ・ニッポン)用マシンの自主開発を開始したのは1988年のことだった。童夢は同年に4分の1スケールのムービングベルト付風洞実験設備の稼働を開始、F101というF3000のプロトタイプを製作して初期データ収集を始めている。それから3年後の1991年に前年型ローラT90-50をベースにしたF102で全日本F3000フル参戦を開始した。
 翌1992年に童夢は風洞実験の成果を投入したオリジナル・マシン、F103でマルコ・アピッチェラのドライブにより全日本F3000初勝利を収めている。さらに1993年には改良型のF103iでやはり勝利し、完成度が一段と高まったことを実証した。
 その童夢の技術は1994年に開花することになる。開幕を前に、同年のチャンピオン候補と目されていたのは"日本一速い男"星野一義、1989年以来毎年タイトル争いに顔を出していたロス・チーバー、万全の体制を整えたアンドリュー・ギルバート−スコット、さらに服部尚貴、マウロ・マルティニらであった。そしてこれらに混じって童夢/ダンロップのマルコ・アピッチェラの名も含まれていた。
 鈴鹿で開催された1994年シーズン開幕戦を制したのはチーバー、第2戦の富士はギルバート−スコット、続くMINEと鈴鹿はアピッチェラが連覇、第5戦の菅生は黒沢琢弥と、前半戦は混戦模様を呈していた。この時点で星野、服部、マルティニはセッティングが決まらず早々と脱落している。そして第6戦の富士はギルバート−スコット、第7戦の鈴鹿はチーバーが制し、アピッチェラを加えた3人でタイトルを競う構図が鮮明となった。
 こうして迎えた第7戦。富士で開催されたこのレースがタイトル争いの行方を左右することになる。その予選で当初もっとも有力視されていたのはギルバート−スコットだった。というのも彼のローラT93-50はムーンクラフトによってカウルが徹底的にモディファイされた、いわば"富士スペシャル"ともいえるクルマだったからだ。実際、彼はそれまで2戦開催された富士のレースをいずれも制しており、第7戦の予選1回目もあっさりとベストタイムを叩き出している。
 午後に行われた2回目の予選も最初の30分はこの流れが変わらず、ギルバート−スコットはさらにタイムを短縮した。ところが、予選が残り9分となったところでアピッチェラが渾身のタイムアタックでギルバート−スコットを約0.9秒も引き離す、1分15秒750という驚愕のタイムをマークした。これを知ったギルバート−スコットも最後のアタックを仕掛けるが、アピッチェラに0.551秒及ばなかった。もう一人のチャンピオン候補であるチーバーはセッティングが決まらず予選8位に沈んでいた。
 直線の長い富士でこのタイム差は決定的な意味を持っていた。0.5秒以上の差はスリップストリームを使って直線で抜けないことを意味していたからだ。しかも同年の全日本F3000は予選から決勝まで使用できるタイヤが合計12本に制限されており、予選のタイム差は決勝のラップタイム差に直結する。したがって不可抗力さえなければ、事実上この時点で勝負の行方は決していたといっていい。アピッチェラが童夢F104でマークしたこの驚愕のタイムは1988年以来、童夢が自前の風洞で続けていた空力テストと、それを最大限に生かすために協力して開発したダンロップ・タイヤの成果が結実したものといっていい。
 そして翌日の決勝で不可抗力に襲われたのはライバルたちのほうだった。なんと、フォーメーションラップを終えてスターティングラインに整列したところで、予選2番手のギルバート−スコットのエンジンが止まってしまったのだ。そのためフォーメーションはやり直しとなり、ギルバート−スコットは最後尾からスタートしなければならなくなる。さらにスタートでトーマス・ダニエルソンがクラッチ・トラブルでリタイヤ、1コーナーで服部と影山正彦が接触してコースアウト、9周目にはチーバーがリタイヤする。  こうしてライバルがいなくなったアピッチェラは悠々と独走しシーズン3勝目を上げている。これでアピッチェラはギルバート−スコットと10ポイント、チーバーとは13ポイントと、決定的な差をつけて第9戦に臨むことになった。その第9戦は第8戦に引き続いて富士で開催されている。このレースでギルバート−スコットはクルマの特性を生かして優勝したが、アピッチェラも手堅く2位に入り、ポイントは3しか縮まらなかった。残すは最終戦の鈴鹿のみ。しかし、鈴鹿を苦手としていたギルバート−スコットはオープニングラップでレースを終え、アピッチェラのチャンピオンが決定した。
 こうして童夢はローラとレイナードというイギリス製レーシングカー全盛の時代に、日本のレース技術が世界有数のレベルに達していることを証明したのであった。その後、童夢はル・マン参戦車の開発に転じ、ワークスさえも脅かすレース専用スポーツカーを製作している。また、風洞実験設備も高い評価を得て、もっとも難しいムービングベルト部分の設計製作を各自動車メーカーなどから次々に受注するようになった。その中には滋賀県米原町にある世界でもっとも静寂な鉄道総合研究所の巨大風洞実験設備も含まれている。さらに、レーシングカー開発で培ったカーボンファイバーの加工技術は関連会社のカーボンマジックに蓄積され、今では大型ジェット旅客機の部品を受注するまで成長している。

(黒井尚志)
写真提供:富士スピードウェイ



1994年全日本F3000第8戦で独走優勝した
マルコ・アピッチェラの童夢F104