1956年
DUNLOP、F1グランプリ参戦
ダンロップがF1への参戦を開始したのは1956年のことだった。F1が始まったのは1950年だが、当初のフル参戦チームは大陸ヨーロッパの自動車メーカーに限られており、のちにグランプリを席巻するイギリスのバックヤード・ビルダーはイギリスGPなどのスポット参戦に限られていた。唯一の例外は1952年と53年の2年間だけ準レギュラー参戦したクーパーだけだった。しかし、1956年になるとヴァンウォールが継続的な準レギュラー参戦を開始している。

このとき彼らが地元イギリスに研究開発施設を置くダンロップに頼ったのはとうぜんの成り行きだった。当時のF1は今とは比較にならないほど小規模でチームも資金力に乏しく、クルマの開発テスト等にタイヤ・メーカーや燃料メーカーの協力が欠かせなかったからだ。しかも、ダンロップはそれまでル・マン24時間をはじめとするスポーツカー・レースで圧倒的な実績を誇っており、性能面でも申し分なかったのだ。こうしてダンロップの協力を得たバックヤード・ビルダーたちは短期間で急速に技術を磨いていった。

そして彼らの努力は1958年に結実する。この年、シーズン全10戦中、大陸ヨーロッパを代表するフェラーリはわずか2勝にとどまり、残りをすべてイギリスのチームが制したのだ。とりわけ際だっていたのはヴァンウォールで、S・モスとT・ブルックスの二人で合計7勝の圧倒的な成績を残し、同年から始まったコンストラクターズ・チャンピオンシップの初代チャンピオンに輝いている。彼らの成功がレーシングパーツを製造していた多くの部品メーカーに強烈な刺激を与えたのはとうぜんで、今日、モータースポーツでイギリスが隆盛を極めているもの、ヴァンウォールの成功がきっかけだったと言っていいのではないだろうか。

こうして1950年代末からイギリス・チームの偉大な挑戦が本格化するのだが、それを代表する二人の人物についてもかんたんに触れておく。コーリン・チャップマンとエリック・ブロードレーだ。チャップマンはスポーツカーで知られるロータスの創設者で、1958年からF1への参戦を開始している。ロータスは1963年に初めてコンストラクターズ/ドライバーズ・チャンピオンに輝き、1980年代後半に至るまでおよそ25年間もF1のトップ・チームであり続けた(チーム名は1994年に消滅)。しかし、F1に様々な技術改革をもたらしたチャップマンは1982年に心臓発作で他界している。

一方、ブロードレーはレーシングカー・コンストラクターのローラ・カーズを創設した人物で、彼自身優れた設計者だった。しかし、それ以上に評価すべき点は多くの優秀な人材を排出したことだろう。たとえばロータスで活躍したトニー・サウスゲート、マクラーレンMP/4を設計したジョン・バーナード、ウィリアムズのパトリック・ヘッド、そしてフェラーリのロス・ブラウンなどだ。しかし、意外なことにレーシングカーの技術発展に大きな影響をもたらしたこの二人は、いずれも大学で自動車工学を専攻していたわけではなく、チャップマンは化学、ブロードレーは建築学が本来の専門分野だった。

さて、ヴァンウォールの活躍で速さが実証されたダンロップにはとうぜんのことながら装着希望が殺到している。そして翌1959年からフェラーリもダンロップ装着となり、興業面でも急速に発展しつつあったF1を支えることになった。そして1958年から1965年までじつに8年連続でダンロップ装着チームがコンストラクターズ・チャンピオンを獲得している。その後も勝利を重ねたダンロップは1970年シーズンをもってF1活動を休止するまで通算83勝を記録した。F1が年間10戦前後で競われた時代のことだ。

この83勝のなかで、人々にもっとも深い記憶を残したのはロータスのジム・クラークではないだろうか。彼は1960年にF1デビューを果たすと1968年までに72戦25勝・33ポール・ポジションという驚異的成績を残し、1963年と1965年のドライバーズ・チャンピオンに輝いている。一方、クルマとしては1969年にコンストラクターズ・チャンピオンを獲得したマトラが今も多くのファンに語り継がれている。

ダンロップが多くの足跡を残したこの時代に、F1は西欧主要国だけの小さなモータースポーツから世界規模の興業へと発展していた。そしてまさにそのときをもってダンロップは使命を終えてF1活動を休止し、スポーツカー・レースに専念することになった。

(黒井尚志)

1963年のオランダGPで首位を疾走するジム・クラークとロータス・クライマックス。彼は同年のシーズンで4連勝を含む10戦7勝という圧倒的な成績でチャンピオンになった。
(写真提供:マックスプレス)